ダヴィンチ・コード


 一部の海外のキリスト教徒の間で「ダ・ヴィンチ・コード」が問題になっています.私の知り合いにいた熱心なキリスト教徒の人たちもすばらしいお人柄でしたし,東海大学の創設者で,私も個人的にお話ししたことのある1991年に亡くなられた松前重義もクリスチャンでした.キリスト教を悪く言うつもりもありませんが,キリスト教徒の中にも宗教を守るためとは言っても魔女狩りや十字軍などによる殺戮とイエスの生き方の間に矛盾を感じている人も多いと思います.

 「ダ・ヴィンチ・コード」で取り上げていた問題は,現在のキリスト教の教えの中には,イエスが言っていたものではなく,逆にイエスが知ったら激怒するかも知れないものも含まれていると言うものではなかったかと思います.「キリスト教における女性蔑視的な要素は,ヴァチカンが長い間をかけて作り上げてきたもので,元々のキリスト教にはなかったはずだ」という指摘や「キリストを人間としてではなく神として作り上げてきた」ヴァチカンのやり方は間違っており,それらの足かせをはずすとキリスト教はイエス自身が本来求めていたものになるのではないかという問題提起としては面白かったと思います.キリスト教原理主義者のもつ聖書に書かれているものはすべて正しいと言うことを反省しないと矛盾は解決しないし,今後,多くの人を引きつけられないということでしょう.「地球が丸い」,「生物は進化の産物で,人も生物の仲間である」,「キリストも一人の人間,男である」など認めたからといってキリスト教がおかしいとはほとんどの人は思わない.反対に,普通の人は,聖書を100%信じて疑わない人を信じられないと思う.

 「ダ・ヴィンチ・コード」で取り上げていたものの一つが性,あるいは性行為に対する考え方でした.キリスト教で,性が罪,あるいは(男性を)堕落させるものとして扱われてきたことに対する批判でした.元々,性,あるいは性行為は,多くの原始的な宗教で決して不純なものではなく,尊いものと考えられていたが,ヴァチカンが長い時間をかけて罪,あるいは(男性を)堕落させるものとして作り上げてきたもので,このことは,イエス自身の考え方とも異なるのではないかということも大きな焦点だったと思います.性,あるいは性行為を罪と考えれば私たちはすべて罪人ということになるし,これがヴァチカンが作ってきたキリスト教の根本の一つだったように私も思っていました.そして,これまでダ・ヴィンチや多くの人たちが,この考え方に反発していたと考えるのも不自然ではないと思いました.

 キリスト原理主義的な傾向の強くなっているアメリカで作られたというのも面白いと思いました.驚くかも知れませんが,自他共に世界の科学もリードしていると考えられているアメリカで進化論を教えていなかった州が1980年代までは2つ残っており,1990年代に一度なくなったのに対し,その反発で少なくとも5つの州ではキリストの教えに反するからと言う理由で進化論を教えられないことになりました.それまであまり関心を持たれなかった教育委員会の委員の選挙で,進化論を教えることに反対する委員を過半数選ぶことはアメリカの宗教者にとってはたやすいことだったと思います.最近,アメリカは保守化し,ネオコン,あるいはその親派が増えているようです.一方,ダーウィンを生み出したイギリスでは,神父さんでも,半分以上は,聖書に書いてあることが全て正しくはないことを認め,あのヴァチカンでもガリレオの天動説をようやく認めた時代にアメリカではネオコンの単純な考えしか持っていない人が増えていることに驚異を感じています.

 「ダ・ヴィンチ・コード」は内容も謎解きのようでそれなりに面白かったのですが,このように現代の社会背景や言おうとしていることに私は興味を持ちました.


 

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