死ぬこと


 先日,知覧特攻平和会館を見て来た.そんな予感がしていたのだが,父母など家族,恋人への遺書ともいうべき手紙を読んで,涙が止まらなかった.戦争は絶対にしてはいけない,9条は守らないといけないと改めて思った.ただ,「本質」を考えると二十歳前後で命をかけて特攻に出た彼らを英雄視しているが,当時の日本の正義感の上で彼らがしたことは敵を殺すこと,さらには自分自身も殺すことでもあった.知覧特攻平和会館を見て来た感想として「死ぬこと」「殺す」ことの善悪を考察した.

 私たちは,肉を食べるが,どれだけの人が,動物を殺して食べていることを意識しているだろうか? 私は,知り合いの猟師さんにお願いして研究室の忘年会で,イノシシをつぶしてボタン鍋などにして食べたことがある.始める前に私は学生に以下のように話した.

 最近,私たちは,動物を殺すことがなくなりました.学校教育やマスコミでは,殺すことが,さも悪のように教えられています.以前は,田舎ではお客さんが来るとニワトリをつぶして歓迎したものでした.今日は,作物を荒らすイノシシを肉ではなく,1匹丸ごと猟師さんに分けてもらいました.私たちは,生き物を食べないと殺さないと生きて行けません.それなのに,調理するとき,食べるとき,牛肉や豚肉を単なる肉のかたまりと見てしまい,生き物を殺して食べさせてもらっているという感謝の念が低くなっています.残酷と思うかも知れないが,今日はイノシシを丸ごと持って来てもらいました.今日は,イノシシを丸ごと調理することによって食べ物には感謝して食べなければならない,生き物を殺して食べているのだと言うことを勉強しましょう.そして,今後は,食べ物を大切にしましょう!

 いくら説明をしても残酷だと言う学生がいるかもしれないと覚悟もしていたが,全員から後でいい経験をさせてもらったと感謝された.

 そもそも生き物を殺すことは,悪なのだろうか? 生き物は生き続けたいという願望を持っているように見えるし,人間は,不老不死に憧れを持っている.しかし,生き物を殺さないと動物は生きて行けないし,植物も死なないと,言い換えれば,食べられて分解されないと空気中にたった0.03%しかない二酸化炭素は,すぐになくなり,光合成のために必要な二酸化炭素が供給されなくなるので,植物も生きて行けない.動物が植物を食べて二酸化炭素を供給してくれるから植物も生きて行ける.生態系の不思議さで,動物も植物も生きていけるのは,殺す(食べる)から、死ぬからである.

 マルサスの人口論によると人口の制限要因は,飢餓と病気と戦争である.農業の発展,食料の供給能力の増加で,先進国では飢えることがなくなり,医学の発達で病気も人口の抑制機能を果たさなくなった.また,大きな戦争もなくなり,今世界の人口は60億人を超え,2050年には90億人に達すると予想されている.人口の増加は,環境汚染,種の絶滅,生態系の破壊などを招き,人口爆発を起こした生物は滅んで行くというこれまでの生物の歴史を思い出させる.個人的には,1980年代に世界中のサンゴを食べ尽くして餌がなくなり自滅したオニヒトデを思い出させた.オニヒトデの人口爆発を抑える天敵がいないとオニヒトデも自滅したように,肉食動物や病気が草食動物を殺して数を制限しないと草食動物も生きていけない.また,野生の肉食動物は必要以上の狩りをしないというが,ニワトリ小屋に入ったキツネは本能的に全てのニワトリを殺す.肉食動物に満腹感,草食動物に殺されたくないという恐怖の感情と肉食動物に容易く捕まらないための高い逃げる能力がなかったら肉食動物もすぐに餌が無くなり,生きていけない.

 一方,現代の生物学では,生物は悠久の時の流れを生き続ける利己的遺伝子の乗り物という見方をしている.利己的遺伝子は,まるで古い乗り物を捨てて新しく性能の良い乗り物に変えるように,古い個体を処分するというのである.利己的遺伝子は生き続けるため差し当たりの乗り物(個体,生物)の寿命を決めている.遺伝子が生き続けるために,逆に個体には寿命が必要で,個体が生き続けることは許されない.ほとんど全ての多細胞生物は,寿命を持っており,遺伝子が寿命を決めていることが明らかとなった.線虫の寿命は,3週間と短いため寿命をコントロールしている遺伝子の検索,寿命研究に適している。線虫のゲノムプロジェクトは1998 年に既に完成していて、約19000個の遺伝子が線虫ゲノムに存在する事が明らかになり,daf-2、age-1、clk-1等の長寿変異体が報告され、長寿をもたらす遺伝子が単離されている.高等動物に痛みを感じる遺伝子を与え,死への恐怖を利己的遺伝子は生み出した.しかし,それでも多細胞生物は死ぬように運命づけられた遺伝子を作り,また,死なないと生態系は維持できないようになっているのである.

 生物の進化の仕組みの一つは,弱肉強食と言われる競争と淘汰である.特に,サルからヒトへの進化は,人種間,民族間,部族間,仲間間,あるいは宗教間で生きるか死ぬかの闘争を繰り広げた結果である.1:3で戦った時,一人より3人の方が勝つように,個人で戦うよりより大きなグループを作った方が生き残れるであろう.実際,野生のチンパンジーの雄3匹が仲間になってそれまでのボスザルを殺すテレビ番組を見たことがある.霊長目でなかったら雄同士の勢力争いは,1対1で行われ,傷つけあっても死に至ることはそれほど多くない.肉食動物のように殺した別種の相手を食べるためではなく,生き残るための競争として(戦争を含め)同種の相手を殺すという強い淘汰のお陰でサルからヒトへの進化は短期間でなされた.ヒトは子供に対する愛情,仲間に対する同情など優しさを持つ反面,敵対する同種に対しては他の動物以上に残酷でもあった.

 一方,以前は奇形など異常な遺伝子を持つ個体は死んでいく運命にあったし,病気に弱い個体が死ねば必然的に病気に強い遺伝子が選抜されるという結果を生み出した.ところが,医学が発達は遺伝的に悪い形質の淘汰圧を低くしている.このままだと一般の人が考えているより早いスピード,世代数で,奇形など異常な遺伝子,病気に弱い遺伝子を持ったヒトが増えていくはずである.遺伝的異常ではなくても,病気などで10人生まれた子供の中で2人しか親になれない時代ではそれなりの強い淘汰がなされていた.一方,親の子供に対する愛情,子供が病気の時心配する親のその感情から出る行動(看病など)は,強ければ強いほど結果としてより多くの子孫を残すことに繋がる.このようにして子供を可愛いと思う親になってからの感情を高める遺伝子が選抜されてきたことを考えると,致命的でなければ劣悪な遺伝子をかばい,残そうとする親の愛情も淘汰の産物である.子供に対する親の愛情,特に障害者を持つ親の子供に対する感情,また,周りの人のそれに対する同情が,弱者の切り捨てを悪だと思うようにさせた.一般的に進化の中では,より多くの子孫を残すために劣悪な遺伝子を淘汰することが有利に働く.このことと矛盾するが,子供の劣悪な遺伝子まで残そうとする親の愛情遺伝子も,より多くの子孫を残すために有利に働く.さらに,この愛情遺伝子が,ヒトに特有の医学の進歩と結びついた時,本来なら致命的な遺伝子さえ淘汰できなくなる.DNAの複製においては,100万回に一回しかミスがないと言われるが,そのことは30億の塩基対を持つヒトでは,1回の分裂で,隣の細胞と3,000カ所で異なることを意味する.そういう複製の間違い,すなわち突然変異の大部分はこれまで長い間の淘汰により残ってきた優れた遺伝子と比較し,ほとんどが劣悪なものである.淘汰を繰り返さないとそれまでの劣悪な遺伝子が残るだけでなく,次々に生まれてくる新しい劣悪遺伝子も加わって増えてくることになる.医学の発達がそれらの淘汰を邪魔していると言う見方は,弱者の切り捨てが優れた民族を作るために必要だ,仕方のないものだ,という考え方(優生学思想)にも繋がる.倫理だけでなく,優生学思想に対峙する医学の必要性の論理が欲しいものである.

 もっとはっきり言えば人を殺すことさえ,絶対的な悪ではないと考えざるを得ない.人が人を殺してはいけないということの理由も少しは書くことができるが,理由があって殺すことを正当化することは,もっと簡単に思える.あなたは,以下の人が人を殺す理由のうち,いくつに納得できない,人がヒトを殺していい理由として認められない,と思いますか? 

1)殺人を絶対的に禁止していない宗教(キリスト教)
  宗教を守るための人殺しは善(例:十字軍は自ら聖地を奪うための戦い,島原の乱)
2)殺人を絶対的に禁止していない宗教(イスラム教)
  目には目を,歯には歯を!自爆テロ
3)殺人を絶対的に禁止していない宗教(仏教)
  寺を守る戦力(例:武蔵坊弁慶は,仏教のお坊さんなのにたくさんの人を殺した英雄)
4)子供を殺された両親の「終身刑ではだめ,死刑を望む」と言う悲痛な訴え
  最近は,一般国民の間にも死刑を必要なものとして認める風潮が強い.
5)宮崎県大崩山や熊本県小国町などに落ちた米軍機の兵隊に,夫や子供の敵(かたき)と言って石を投げた一般国民
  私はそれをかわいそうだと言ってかばった祖父を尊敬している.
6)暴れん坊将軍など時代劇や西部劇では,勧善懲悪ではあっても人殺しが英雄で,それを格好いいと思う視聴者の存在
7)国のため,大義のため,戦争の命令を出す統帥権を持つ為政者の存在
  ブッシュは,何万人もの人を殺した大統領で,歴史上の偉人,英雄と言われる信長も家康もナポレオンも人殺しの責任あり.
8)東京裁判は勝者の論理(戦勝国に罪はないのか!)
9)戦争を指導したA級戦犯に罪があり,命令されて人を殺した軍人は無罪,どちらかというと被害者?という論理
10)戦争の手柄としての勲章,英雄は,人殺しの証し
11)自衛隊など軍隊は,国を守るという大義名分を持つ人殺しの訓練をしている集団
12)原爆を落としたアメリカの罪悪感,原爆を持つ国の論理
  多くのアメリカ人は悪いと思っていない.
13)正当防衛による殺人
14)テロ,ハイジャック犯の射殺
15)病気のためとして犯罪にならない精神病患者による殺人
16)赤穂藩藩主・浅野長矩が吉良上野介のいじめに対し仕返しとしての刃傷沙汰に同情する日本人
17)江戸時代,敵討ちの合法化(赤穂浪士は英雄視)
18)自殺という名の殺人
  美化される切腹
19)日本でもようやく自殺というより殺人的な見方をされ始めた無理心中
  生き残る子供がかわいそうという親子心中
20)宗教などによる集団自殺
21)敵を殺し,自分自身も殺す特攻隊
22)銃規制に反対する多くのアメリカ人の存在
23)武器を作る企業の存在とその論理性
24)本質的に人殺しの練習とも考えられる戦争ごっこ,チャンバラごっこに興奮した子供時代
  最近の子供はしなくなっている? 
25)武道系のスポーツは,もともと相手を倒すのが目的
  オリンピック種目の中に含まれる柔道,射撃,レスリング,ボクシング,フェンシング,アーチェリーを含め,空手,剣道,弓道など
26)死者が出るような祭りの主催者の評価
27)バンジージャンプなど危険を楽しむ遊び・遊具
28)民族の持つ文化としても捉えられがちなニューギニアなどでの部族闘争
  お互いに大義あり,だが,遊びの要素あり.
29)命がけの仕事に携わる人の評価
  漁師,消防士,鳶職の人,宇宙飛行士などの他,普段はそれほど危険でなくても台風の中ハウスを見回りに行く農家など
30)ヒマラヤ登山,ヨットによる単独世界一周に失敗すれば無謀
  成功すれば英雄! 大自然の予期できない脅威! 怖がっていたら海で泳ぐことも,山に登ることも,道を歩くこともできない.
31)水に溺れている人を助けに飛び込んで自らが死ぬこと
32)医療行為としての尊厳死
33)脳死状態の人からの臓器の摘出
34)国の犯す殺人1):死刑判決を出す裁判官
35)国の犯す殺人2):印鑑を押す法務大臣
36)国の犯す殺人3):死刑執行人
37)乳母捨て山
  食い扶持を減らすために年老いた母を涙ながらに山に捨てたと言う.
38)間引き
  貧乏な家庭では,養えないほどの子供が生まれた時,生きている子供を育てるため泣く泣く間引きが行われていたと聞く.
39)堕胎
40)前夫の子の殺人
  雄ライオンを含む生物には自分の遺伝子を持っていない配偶者の子供を殺し,新たに自分の子供を作ることがあるそうである.ヒトは自分の子供ではなくても子供に対する愛着を持つ一方,ライオンと同じような子殺しの報道がなされる.
41)事故としか言いようの無い過失致死
42)日本では飲酒は殺人として認められるようになったが,死亡事故に繋がりかねない車の運転
  スピード違反をしたことのないドライバーはいない?

 などなど理由のある殺人は悪とは思っていない風潮がある.あなたは、これらのうちいくつに納得あるいは人がヒトを殺していい理由として認められると思いましたか? 

 ニューギニアなどでの部族闘争には、大義名分の陰で,遊びの要素もあることからも,元来,私たちは人を殺すことさえ悪とは思っていなかったものと思う.他の人より強くなりたい,勝負では勝ちたいという欲求は,優位に立ちたい,生き残りたいという生物としてのヒトの持つ性(さが)でもある.日本人は毎年3万人も自殺していてマスコミの話題にもならない.自殺も殺人であるが,仏教では他人を殺すより許されると思っている風潮がある.江戸時代の切腹に至っては美化されることの方が多い.

 江戸時代の儒学者で教育者の広瀬淡窓は「万善簿」の中で,その日に行った善行と悪行を帳面に付け,その差し引いた善行の数を一万にするという業を行っている.その悪行の基準の中に「蚊を殺す」ことがあることからも,古くから蚊でさえ殺生することを忌み嫌っていたことが分かる.キリスト教も仏教も基本的に生き物を殺すこと,殺生を戒めている.また,江戸時代,国レベルの法律で肉食が禁止された.

 しかし,鳥を殺すのは残酷と思うが,魚を丸ごと食べるのは平気,クジラを殺すのは残酷だが,牛を殺すのは平気というのもちょっと変である.魚を釣ったときの快感は,殺していることを忘れさせる.快感だけを楽しみ,捕った魚をリリースするというスポーツもある.しかし,魚を料理したヒトなら分かると思うが,魚とヒトの基本的な器官の違いと言えば肺の代わりに鰓(えら)があるくらいで,血管から赤い血を流し,目,口,脳,心臓,肝臓,胃,腸,硬骨,筋肉などの共通性から考えて,魚は,私達ヒトに極めて近い生物種である.そのような魚は釣られた時,人間が水の中で溺れるのと同じように苦しんでいるのである.日本人は,江戸時代,国をあげて肉食をしなかったので、日本人を野蛮人と思っていながら牛肉を食べる西欧人のことを,多くの日本人は,反対に野蛮人に思っていた.これらは全て慣れ,習慣に過ぎない.現代では,人を殺した犯罪者に,罪の意識を持ちなさい,罪の意識で苦しみなさいと教えているが,殺生を悪いことと思うようになったのは,教育,道徳,哲学,宗教の教え,あるいは法律に従っているだけである.多くの哲学も人を殺すことさえ絶対的な悪とはしていない.社会秩序を乱す殺人(法律で禁止されている犯罪),大義の無い殺人,強盗のような私利私欲のための殺人を戒めているだけである.

 それでも,私は,動物をむやみに殺していい,人が人を殺していい,と言っている訳ではない.哲学,あるいは倫理は,できるだけ多くの人々が幸せに暮らす社会を作ることを目的にしなければならないと思うし,その社会とは人が人を殺す必要のない平和な社会である.そのような社会を作るために,社会の秩序を保つために,生きているものを殺さないようにしようという優しさの教育は,役に立つ.一方,人間が他の動物と違っていることの一つは,相手の立場に立って物事を考えることができることである.殺された人の立場,殺された人の親など家族の立場に立つと簡単に人を殺せる訳がない.私は,食べることの意味を,生き物を殺していること,だから感謝して食べなくてはいけないことも教えなくてはいけないと思った.私の明治生まれの二人の祖父のうち,農家であった祖父は,ニワトリを家畜として見ていたのでお客さんが来るとつぶして食べていた.一方,もう一人の祖父は尾長鶏や軍鶏などペットとしてニワトリを飼っていたので一度も殺すのを見たことがなかった.もちろん,卵は食べており,これも生き物を殺すことに変わりはないのであるが,私は,後者の生き方に強く影響されている.


 

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