以心伝心

(本質を見抜く力 第3話)


 LD(学習障害)の子供さんを持つとんびさんから以心伝心と言うタイトルで、「スポーツでも芸術でも、言葉では伝わりにくいことってあると思います。脳から脳へダイレクトに伝える手段は無いんだから、なんらかの伝達方法を考えねばなりません。」そこで,その子とんびさんの教育に「囲碁を、視覚認識力を教える手段として視覚情報をもっと活用できないか,初心者に、盤の状況を視覚的に見せてあげられれば、イメージがつかめるんじゃないか」ということで、「具体的に、どんなふうに見せればよいのか、今ひとつわたし自身もぴんと来ていません。」という書き込みを見てこの文章を書きました.

 まず,第1話で,私が,鬱病の状態をある程度「理解」はできるようになったけど実際は全く分かっていないと書きましたが,恐らく親といえども子トンビさんのことを理解するのは難しいだろうし,本人しか,いや本人でも分からない様な気がします.従って,とんびさんの質問に,何をどう答えていいかわかりませんが,私なりに一緒に考えてみました.

 私には小児麻痺で足の悪い弟がいます.私の一番最初に覚えた数字が7で弟の足の悪いことに気が付いたのが生後7ヶ月の時だったはずです.その弟が小学校に入る年ですから私が4年になった時,3年生の時の恩師,刈屋先生が新しく始まった小児麻痺の子供たちだけの特別クラス,通称刈屋学級,の担任になりました.早速,私の家にも先生が来てそのクラスに入るよう説明があったと聞いています.しかし,親の判断で,弟は,そのクラスに入らず,普通のクラスに入ることになりました.その後,遠くから石を投げられて逃げて行った友達がいたらしくけんかができなかった悔しさに泣いて帰ってきた弟に兄ちゃんが行ってやっつけてやると言った思い出,楽しみにしていた運動会に先生から「走らなくてもいいよ」と言われ,半周遅れで走っている弟に声援を送ったことなどの思い出がよみがえってきました.弟の場合,普通クラスで,友達にも恵まれ,また,友達に障害者とのつきあい方を教えながら育ち,今は大阪で1級建築士,あるいはプロ?のマジシャンとして頑張っています.それはそれで,正解だったと思いますが,障害の内容で,子供が判断できない内は最善の生き方を親が選択してあげるといいと思います.因みに私の娘は,知的障害者のスペシャルオリンピックスにボランティアとして長い間頑張っていて誇りに思っています.障害者に接したことが少ない若い人には,障害を持つ人の相手をするのが難しいのだろうと思います.

 コミュニケーションの手段としての言葉について分析してみました.「以心伝心」は主に言葉を通じて行います.SUさんは,「若い頃は、「言葉だけで全てが伝わる」という信念を持っていましたが、そうではないことが最近よくわかりました。もともと言葉は不完全なものですから、伝わらないことがあっても、その人の表現力の問題ではないというケースも多いと思います。」と書いています.私の研究室での外書講読は,英語を勉強しているのではなく,英語を通じて専門知識を習っているのだと教えています.いわゆるMedium(Mediaの単数形)として英語を使っていると言うわけです.Mediumとは,一言で言えば「媒体」で,「光は真空を媒体に伝わってくる」と言うときにはそのまま媒体と訳すのでしょうが,「作物を育てるMedium」と言えば用土,培地と訳した方が適切ですし,「電波を通じて情報を広く伝達する」と言うときにはマスメディアと英語のまま訳されます.言葉は,ヒトとヒトの心,意志,情報を伝達・媒体するものという意味でMediumというのだと理解しています.

 色を伝える時,言葉としてもともとは共通の認識を持つ「もの」を利用していました.桃色,山吹色,空色などなどです.ただし,本物のモモの花の色を知らないとピンク(ナデシコ,カーネーションのこと)色と区別できなかったり,ヤマブキ色は知っていても本物の花を知らない人が多くなってきたりしているし,同じ空色といっても人によって,あるいは住んでいる場所によって認識が異なるときがあります.例えばカリフォルニア・ブルーとキャロライナ・ブルーとではかなり違います.そこで,最近では,標準色に番号をうって色合わせを行う方法,コンピュータなどで使うHLS方式,色の3原色に分けホームページで使うhtml方式,L,a,b方式,明度,彩度,色度など数字で表す方式が,いろいろありますが,私は,同じ色の認識を伝えるMediumとして,数字は,例え正確であったとしても数字で,RGBが250,155,110と言っても色を想像できる人がいないようにイメージを伝えるMediumとしては無理があると思っています.これは,色でさえ,出身,文化,時代によって同じイメージを持てない,同じ言葉で同じ意味を理解することが言葉の基本であっても多くの場合,正確さに欠ける,受け取る側の理解は同じでない,という例です.

 さらに,言葉には動詞だとか,論理的な表現が必要なことがあります.私は論理的に物事を考える能力においては優れていると思っているのですが,言葉を記憶する能力には劣等感を持っています.こんなことを書くと子とんびさんと比較してそれは不遜だと思うかも知れませんが,私が劣等感を持っていることには間違いありません.それなりの知識はあるが,実際は名前だけではなく,すべてのことに記憶力が悪いことは周りにすぐにばれてしまう. 特に人の名前を覚えることができず相手にイヤな思いをさせることが多くて,申し訳ないといつも思っています.毎日顔を合わせる学生に「そろそろ名前を覚えてください」,「名前を言うのに考えないでください」などとよく言われます.そんな時,学生には,年だからとか,若いときに勉強しすぎて脳の許容能力がなくなってしまったのでゴメンなさいと謝っています.しかし,実際は小学校の頃から記憶力の悪さには劣等感を持っていました.私の場合は,まだ並以下程度で,病気ではなかったし,人一倍の努力で今の知識があります.記憶力のいい方は,うらやましいとは思いますが,努力してきたことは,記憶力のいいことより自慢できると思っています.(←自分の自慢ではなく子トンビさんへのメッセージのつもりです.)

 それから,絵文字囲碁問題を作っているので,これも不思議に思われるかも知れませんが,頭の中で物を思い浮かべたりすることができません.夢もほとんど見ません.実際はできているのかも知れないし,夢も忘れているだけかも知れないと思うこともあるのですが,子供の時から弟たちがものの形を思い浮かべることができるというのを聞いて不思議に思っていました.

 将来,子トンビさんにできる仕事は限られているかも知れませんが,子トンビさんは言語能力に問題があるだけで思考能力に問題がないのであれば,社会に貢献できるようなことが見つかると思います.

 昨年,私の教え子が就職した知的障害者の授産施設(2005年9月の国会で授産施設の予算を実質的に削る法律ができました.日本の社会が少しずつ弱い立場の人たちの切り捨てを行っているように思えます.)で農業を営んでいる明星学園を2回訪れました.そこの利用者を見ていると,みんな楽しそうに農作業に取り組んでいて,こちらが勇気をもらって帰ってきました.その時には,体は普通なのに仕事をしようとしない一部の若者より好もしく思いました.もちろん,精神的な問題で仕事ができない若者がたくさんいることも最近よく分かってきました.

 とんびさんの「具体的には、どんなふうに見せればよいのか」という質問に答えられる専門性を私は持っていませんが,本質を見抜く力の立場から書いてみました.