エビネの新学名

Calanthe × hortensis T. Tanaka

(園芸四方山話第11話)


 一般に国際植物命名規約( I. C. B. N. )によると,種間品種は,雑種式 Hybrid formula で × で名前を結びつけて雑種を表すことになっている.たとえば,人為的に作られたエビネとキエビネの雑種個体は Calanthe discolor × C. striata で表わされる.さらに,2元雑種,4元雑種の記載方法も決まっている.このように,雑種(個体)は雑種(個体)であって種でないことは言うまでもない.しかし,最近のエビネ品種群など複数の種が複雑に入り交じっており,多くの品種は明らかに雑種そのものでないので,学名として雑種の表記の仕方,雑種式で表わすことは適当でない.さらに園芸品種など作物の中には種の定義に近い存在の雑種起原の品種群が存在していることがあり,それらの学名は無理をして遺伝的に近い方の親種の学名で表わすことも適当でない.そこで,エビネの品種群のような雑種起原の植物の学名について考察し,エビネの品種群に新しい学名を与えた.

 エビネ Calanthe discolor Lindl. は日本の山に普通に見られる野生ランであったが,エビネブームで山取りが盛んに行われ,野生では少なくなってしまった.1970年頃の北部九州のスギの人工林で,柿色の花を咲かせるエビネと黄色で大輪の花を咲かせるキエビネ C. striata R. Br. の自生する地域ではそれらの中間の形質をもった美しい自然交雑で生じたと考えられている雑種が見られた.著者の知っている自生地の集団では雑種第一代(F1)らしいものだけでなく,戻し交雑第一代(BC1)あるいは雑種第二代(F)以降で形質の分離世代と思われるものが中心で,園芸品種のコレクションのような様相を示していた.このようなエビネとキエビネの雑種はタカネエビネと呼ばれる.同様にエビネと九州南部に自生し淡い紫色のキリシマエビネ C. aristulifera の雑種はヒゼンエビネ,キエビネとキリシマエビネの雑種はヒゴエビネ,エビネ,キエビネおよびキリシマエビネ間の三元雑種はサツマエビネと呼ばれ,趣味家により山取りの品種が作られていた.

 その後,特に最近では山取りではなく人工交雑と試験管内の無菌播種により,これらの3種に,香りのするコオズエビネ C. izu-insularis (Satomi) Ohwi et Satomi,独特な形のサルメンエビネ C. tricarinata Lindl.も加わって多様な品種群が形成されている.このような栽培エビネの品種群に親種の中の一つの学名,たとえばエビネの学名である Calanthe discolor を与えることはできない.したがって,エビネの園芸品種には学名がついていない.著者はすべての生物個体には,属するべき分類群,学名を与えるべきだと思っている.

 このように,花卉園芸植物を中心に作物の品種では,複数の種間で複雑に交雑が行われてできた品種群あるいは来歴の比較的はっきりした品種群があり,どちらか片親の名前で品種の属するべき種名を表わすことができない場合が多い.このような時,品種の属するべき種名は「別」の学名で表わすしかない.そこで,日本の趣味家により作られたこのようなエビネの品種群を Calanthe × hortensis T. Tanaka と命名した.この種小名は原則的に雑種起原のものに限定し,雑種起原であることを表わす × をつけることとした.× hortensis という種小名の概念(根拠)とその用い方を以下に紹介する.

 Anderson (1949)が考察しているように自然環境で種間雑種ができるのは,種の隔離を壊す災害や伐採のようなもともとの自生環境の破壊が必要で,前述のタカネエビネの成立には伐採とスギの植林が引き金であった.その後,稔性の高い親種の一つとの戻し交雑が起きると,もう一つの親種との間に隔離が強くなるので主にその親種と繰り返される戻し交雑で浸透交雑が起こるとされている.しかし,自然界で実際には雑種の生存率が低く,実際には浸透交雑が起こることは少ないようである.一方,農業上でも野生種から耐病性など有用遺伝子を園芸品種に導入する際にはそれらの種間雑種に,野生種ではなく作物種と戻し交雑を繰り返して必要な遺伝子を獲得した品種が育成,すなわち,浸透交雑が行われる.栽培トマトに野生種の耐病性の遺伝子を導入する時などである.栽培トマトと戻し交雑を繰り返すと有用遺伝子以外の多くの野生種の遺伝子は,排除されているので,作物種内の品種と考えて良い.戻し交雑を繰り返すことによって稔性が回復し,90%以上の遺伝子が戻り,形質的にも作物の種,例えばトマト,と区別がなくなった時にはいつまでも雑種起原と言う必要はなく,種名は作物の種名,トマト Solanum lycopersicum ( = Lycopersicon esculentum ),でよいと考えている.また,トウモロコシやレタスのように明らかな野生種がなく,栽培されているものだけで成り立っている種も多い.ただし,種間雑種起原かどうかは明らかでない場合の学名はこれまで通り,それぞれ Zea mays および Lactuca sativa でよいと考えている.

 しかし,ラン科植物の栽培エビネや栽培カトレアなどの場合,戻し交雑ではなく雑種同士の交配で雑種性を残した品種群が育成されている.このようなエビネ属の品種を Calanthe spp. のように種小名のない学名で表わされることも多かった.spp.は,種 species の略で属名は分かっているが,種名が分からないときに便宜的に用いるもので,エビネ属の品種を表わすには適さない.なぜならエビネ属の品種は種名が分からないのではなく,複数の種間で複雑に交雑が行われてできた品種あるいは個体なので属すべき種名がないからである.

 拙著『品種論』では,そのような植物に学名(種小名)として × hortensis を与えることを提案した.これまでも園芸品種群に hortensis という種小名 Specific epithet を安易に与えることもあったが,論理的な命名法ではなかった.そこで,1)雑種起原でない園芸品種の学名には野生種の学名を用い,安易にこの種小名を与えない,2)明らかな雑種起原で戻し交雑が進んでいない品種群の場合だけ与えることとするので,種小名に雑種起原であることを表わす × を付けることとする,を原則とする.言い換えれば,明らかに雑種起原で正しい種名をもっていない栽培グループに対してだけ種小名として × hortensis を与えることとした.野生種がなく,栽培されている品種だけの種に対し,栽培種であることを表わす sativa などの種小名と同様に「園芸作物の」と言う意味で, hortensis を用いることに命名法的には問題ないが,野生種の種内変異であれば野生種の学名を用いるべきなので,安易にすべての園芸品種群に学名としてのこの種小名を与えるべきでない.雑種起原であることが明らかであっても同属に複数の雑種起原の品種群があり,×hortensis が他の品種群に使われていたり,すでに適当な種名が与えられたりしている時には × hortensis にこだわることはない.

 植物分類学で,これまでツバキの品種の多く、すなわち狭義のツバキはヤブツバキと同種と考えられ,「ツバキの標準和名はヤブツバキで、学名は Camellia japonica である」と言われてきた.しかし,これまでの研究からツバキはヤブツバキの種内変異ではなく,1615年より少し前に日本のヤブツバキと中国のツバキ属ツバキ節の種間の雑種起源でできたものと考えられた.そこでツバキの品種の多くをヤブツバキと区別して「標準和名をツバキ,学名を Camellia × hortensis 」と命名した.詳細は別に示す.

 また,正常に子孫が残せる雑種起原の作物で,どちらか一方の親の名前を付けることができない場合には × hortensis を用いてもよいが,すでに学名の付けられている作物には用いない.たとえば,アブラナBrassica campestris とクロガラシ B.nigra 間の雑種起原で倍加(複二倍体)して稔性が回復しているカラシナの学名には × hortensis を用いず,従来の学名に,雑種起原である事を表わすため × を加えて B. × juncea とする.学名の混乱を最小限にしたいからである.もちろん,カトレアなどラン科の園芸品種のように多元雑種であっても来歴がはっきりしていれば,雑種式で表わしても構わない.しかし,個体の学名を雑種式で表わすことができたとしてもあまり複雑になると実用的でない.

 この原則で考察すると種小名に × hortensis を付けることのできる栽培植物はそれほど多く見当たらない.それでもエビネの品種群には,Calanthe discolor Lindl.という学名は適さないし,仕方がないからと言って Calanthe spp.では可哀想である.そこで,Calanthe × hortensis T. Tanakaと命名したのである.

 これは、『品種論』の中で雑種起原の種の概念を考察し,命名法を提案したものの抜粋で、『自然と野生ラン』2013年5月号にも書きました.したがって、引用される時には、「田中孝幸.2012. 品種論. 東海大学出版会」としてください.

 

参考文献
  • Anderson, E. 1949. Introgressive Hybridization. John Wiley & Sons, Inc., New York. Chapman & Hall, Limited, London.
  • Tanaka, C. ( Chairman ) 1969.International Code of Nomenclature for Cultivated Plants. obtained from four societies ; (1) The international Bureau for Plant Taxonomy and Nomenclature, Utrecht, Netherlands, (2) The American Horticultural Society Washington D.C., (3) Crop Science Society of America, Wisconsin, and (4) The Royal Horticultural Society, London.
  • 田中孝幸.2012. 品種論. 東海大学出版会.
  • 田中孝幸.2012. 園芸と文化. 熊本日々新聞社.熊本
  • 田中孝幸. 2013.エビネの新学名 Calanthe × hortensis T. Tanaka.自然と野生ラン2013年5月号:68-69.
  • 国際園芸学会. 2008.国際栽培植物命名規約 第7版.アボック社,鎌倉.

  •  

    戻る