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Camelliaの囲碁観

 子供にとって遊びは仕事である.私は,大人になっても遊びの感覚を持っているといい仕事ができると思っている.その遊びの中でも最高のものと考えられているものの一つが囲碁である.囲碁という遊びを知ったことで,楽しみが増え,人生の中での読みを覚え,完ぺきがあることを知り,さらに言えば囲碁を通して仲間,ライバルとの信頼関係,コミュニケーションが深まった.私は,子供の遊びの感覚,好奇心を一生持ち続けたいと思っている.たかが遊び,されど遊びである.  私が,このホームページで「囲碁は49与えて51をもらうという発想に立つゲーム」と表現してから,プロの方まで最近同じようなことを言うようになった.このホームページ全体を読んでもらうと分かると思うが,この表現も私が思い付いたもので数人の方から,なるほどその通りだ,と同感していただいた.書いたことが囲碁の本質を理解するために役に立っていると喜んでいる.

 感想は,何でも言って委員会 の掲示板にお願いします.



49与えて51をもらう

 自由な発想が出来るから囲碁は面白いし,強い方には地に辛い方が多いような気がするが,みんなが地に辛い同じ様な碁を打ったら碁は面白くないと思う.囲碁は殺しに行ってもよいが,基本的にはバランスを重んじるゲームで,他のゲームのように100を欲しがる(殺しに行く)と全てをなくす(殺される).49与えて51をもらうという発想に立つゲームだと思う.地に辛い人が49人いれば,模様を好む人が49人いてもいいし,ひたすら殺しに行く人が2人くらいはいても良いと思う.ただし,模様を張るためにはある程度の一貫性がないと,最終的に地にならないし,打つ人の性格,人間性が,特にここに現れてくる.プロには地に辛い人が多いような気がするが,プロの世界で武宮九段のように模様にこだわる人でも勝率を残せるのが囲碁の面白いところである.

 囲碁のタイプとして MuramasAさんのMLGでのチーム分けを紹介する.

大模様スターズ
 宇宙流を愛し,大模様を張ることを目標としているチーム.時として地が足りなくなるが,敵が模様に入ってきたときの攻撃力は強力.

剛腕ベアーズ
 別名殺し屋.とにかく力が強い.石と石が競り合ったときの接近戦では負け知らず.三眼の石さえも殺してしまう勢い.

華麗シンフォニー
 囲碁を芸としてとらえ,美しい手筋を打つことを生きがいにしている.愚形を打つぐらいなら投了したほうがまし,という美学を持つ.

四隅バンカーズ
 実利第一主義.とにかく地を取りまくる.序盤には3線以下を打ちつづけ,有無を言わさずに地を取り,勝つ.当然,ヨセも強い.

疾風ハリケーン
 布石で足早に盤面を駆け巡る棋風.大場をどんどんとりまくり,少しくらい薄いのは気にしない.  

重厚シールズ
 とにかく手堅く,厚い棋風.敵にスキを見せない.足は遅いが,いざ攻撃に転ずると重戦車のごとく敵を蹴散らす破壊力を持つ.


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地でも厚みでもない布石

 私自身は勉強をしたことはないのであるが,いまだにプロの方が古典を勉強するのは,江戸時代の名局は中盤以降に間違いがほとんどないからと聞いている.中盤以降に間違いをしない,あるいは同程度の間違いをするとしたら囲碁の勝負は布石で決まるはずである.私個人としては模様,厚みに重きを置いているのであるが,模様一辺倒では相手に覚えられて勝率を残せない.私の布石の方針(星や4線に打つ)は上に書いた通りであるが,地を稼ぐか,模様を張るかの決定はその後にすることもできる.相手の打ち方,対局者との相性,あるいはその日の気分によって地につくか,厚みで勝負するかを変えるのである.厚みを重要視する打ち手は一発勝負的な要素が強く,地に辛い方は安定しているという印象がある.しかし,地にこだわりすぎても厚みにこだわりすぎてもいけないと思う.実力が拮抗している相手に勝つためには布石の時のバランス感覚,すなわち地でも厚みでも相手などによってバランスのいい方に打つという方針の使い分け,柔軟性,大局観が重要である.

 碁の強い弱いは総合力である.筋がいい打ち手が強いとは限らない.筋が悪い人でも,構想力,形勢判断力,読み力,妙手(裏付けの元に打たれた発想の飛躍した手)での逆転力,などがあれば筋のよい人に勝つことができる.勝つためには,無理な手を打って咎められたり,固すぎる手(無駄な手)が多くて遅れたりしないことであるが,形勢のいいときには固くなり,悪いときには強く打ちがちである.打っていて楽しい碁(プロの世界では名局)とは,気心の知れたライバルと一手一手お互い精一杯勝とうと熟慮し,打ち手の棋力なりに最後までその無理な手,固すぎる手がない碁である.囲碁が楽しいのは自由だからで,考える喜び,打ち手の棋力なりにいい手を見つけるよろこびがあるからではないだろうか.

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答えのない世界とある世界

 詰め碁,手筋,寄せ(最善の別れ)などの問題には,答えがあり,作成者(主にプロ)と対局できるのであるから,私が布石,定石を覚えたくないと思っていることとは別である.布石は自由で,バランス感覚を養うことが出来るのに対し,詰め碁などの問題には答えがあり,読みの力を養うことが出来る.表現を変えれば,神のみぞ知る不可解な布石と反対に,「正しいものは正しい」世界である.最近は,このページで素人でしかできない,私にしかできない,問題を,石問を使って作っているが,人の問題を解くより作る方がさらに面白い.定石は,その「答えのない世界(布石)」と「答えのある世界」を繋ぐもので,有利な布石を作るため研究され見つけられた現時点での「最善の答え」と考えたら分かり易いのかも知れない.

 布石や序盤戦で大きな差がない時,中盤における戦いは特に重要である.中盤における戦いはバランス感覚に裏打ちされた構想力とそれを実現するための読みの力である.まず,布石のバランスから判断して最初の構想を軌道修正した方がいいのかどうかの判断をする.振り代わりや石を捨てるなど大きな決断を伴う大転換を何度もすることになるかも知れない.地を選んだ方がいいのか,厚みを作った方がいいのかは,結果としての布石で客観的に判断した方がいいと思う.地あるいは厚みにあまりにこだわっていると不利と判断したときその段階で勝負が見え,無理をしなくても勝てる碁を強引に打ってしまうことになるだろう.さらに言えば,地に辛い人と厚みを好む人との対戦ならいつも同じ傾向になるかも知れないが,地対地,厚み対厚みなどの場合は,布石の結果により構想を変えた方がよい結果になるだろう.

 その構想を実現し,勝負を決するのは緻密な読みの力で,手順が大切である.しかし,手順はプロの対戦を見ると本当に難解で,力の差が最も現れやすい場面と思われる.時間無制限の古碁やメール碁で高段者が打てば寄せで間違いはほとんどなくなるとは思うが,中盤の読みの力は,もっと難解で,プロでも気付かない手がどの対局でも隠されているものと思う.発想の飛躍した鬼手は,ここで出てくる.中盤と寄せの世界の境をより中盤側に持っていくことのできる打ち手が差し当たり神に近い打ち手と言うことになるのだろうか.

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石の価値

 囲碁は不思議なゲームである.互先の碁で最後に白が打つようにすれば同じ数の石を打つわけだし,置き碁でも最後にダメを白が置き石の数打てば,盤面と上げ石を含めて同じ数の石が打たれたことになるが,先に打つ黒は一般に6目半も白より有利と言われている.何故だろうか? 答えが分かれば勝つ方法が分かるはずである.もちろん,碁を打つ機会が少なく(年数だけは・・・[^^;]),定石も知らない私には細かいことは分からないが,理論的に考えれば答えは以下のようになるはずである.先に打った方が有利なのは大場が最初にたくさんあり,最後はダメが残るからである.と言うことは,勝つためには最初に天元や星のような大場から打ち,時には急場を作って相手にできるだけダメを打たせることである.ダメあるいはダメに近い手(凝り型,ダンゴ,2線を這うような手)を相手に打たせるためには,石の形にこだわることである.相手の形を悪くするためには捨て石も重要で,捨て石は取られると打っている石の数が少なくなり,相手に置き石を与えているようにも見えるが,捨て石を取るため相手は内側のダメを詰めなければならないので相手は捨て石の倍以上のダメを詰めていることになる.

 囲碁は,自由でどこに打ってもよいが,勝つ喜びがないと強くなれないし,強くなろうと思わなければ面白くない.その点,囲碁は弱い人でも置き石をすることによって,上手に勝つことができる.勝つ喜びのためには打ちながら学習すればよい.プロでは特にそうであろうが,アマチュアでも対等なもの同士であれば,地か厚みでお互いぎりぎりまで踏み込む.踏み込みすぎると殺され,萎縮すると数えて負ける.これを繰り返してどこまで踏み込めるかを学習する.強い人には覚え始めの頃模様や厚みを作る碁を好み,打ち込まれたら殺しに行っていた人が多いと聞いた.殺しながら死活を覚え,打ち込んで生きる快感から次第に地に辛い打ち方に変わって行くそうである.ただし,地に辛い人でも,地に必要以上にこだわらないようにすることも必要で,あの人は隙があればすぐ殺しにくるというイメージを持たせた方が,相手は萎縮するので地合いでも勝てる確率が高くなるはずである.

 対等でない置碁の時には布石や死活や寄せで読みの差が出るので対等の時より手をかけて打つようになる.この用心して打った石が急を要する石ではない時,差が縮まり,置き石をしたアドバンテージが減って行く.もちろん,下手が負けるのは,逆に手抜きをしたり,死活を読み切らなくて石が死んでしまうことが致命傷になるからと言うことも多い.また,ダメ詰めのような働いていない石を打つ,あるいは打たされたり,小さく生きて地合いで負けたり,さらには,実力以上に無理をして踏み込みすぎたり,というのが直接の原因のときも多い.したがって,強くなって置き石の数を減らすと打ち方も変えないといけない.上手が打つ手から学習,あるいは本から勉強して今度は逆に「ダメな手を相手に打たせるように打つ」,「壁を作るのであれば打ち込まれない程度にできるだけ広い方に壁を作る」,「捨て石を利用する」,など発想の切り替えを含む高等戦術を,いろいろと試すのも楽しいし,相手がそれに対しどう対応するのかを見るのも勉強になる.

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囲碁の上達法

 親トンビさんは非常に論理的な思考・表現のされる方で,いつも感心している.囲碁の上達法として

 ・考えたことを蓄積していく

 ・打った失敗と成功を記憶として蓄積していく

 ・本での知識を蓄積していく

 の三つがあるのではないかと指摘を受けた.さらに,囲碁の上達の要素として「蓄積」の他に,パターン認識力の向上があり,第一感というのは,五感の中の視覚のことで,囲碁の用語の多くは,形状から来たイメージの言葉であると表現された.

 私も基本的にそう思う.どの分野についても言えることだろうが,囲碁においても上達のためには蓄積が大切である.ある程度,囲碁を覚えた後は,「本や棋譜で知識の蓄積」や「考えたことの蓄積」も重要だろうが,囲碁上達の基本は「実戦での失敗と成功の蓄積」だろう.上級者との対局では,自分勝手な読み,間違いに気付かされることが多くあり,そのたびに上達しているはずである.しかし,何と言っても上達のための一番の早道は,「本や棋譜で知識の蓄積」で,これまで先人たちが築き上げてきた知識をまず詰め込むことである.数学でも同じようなことが言える.現代の数学は過去の天才の方々のお陰で成り立っていて,それを最初から自分で組み立てるのはどんな天才でも無理である.

 さらに言えば,数学ではできあがった公式を覚えることより過去の天才の思考方法を学ぶことによって,すなわち,公式の(使い方ばかりでなく)作り方を学ぶことによって「思考回路が開発」され,応用が利くようになる.囲碁にも似たところがあるので,私は囲碁の上達法として「考えたことの蓄積」と「思考回路の開発」を重視してきた.私は,学生時代,数学の公式を作る訓練の応用で,できるだけ公式を使わず問題を解くようにしたり,オセロゲームのルールから碁石を並べて私なりの定石を作ったりしたことで,囲碁でも定石は覚えなくてもそれに近いものができるかも知れないと過信していたように思う.

 私の場合,1に,いい対戦相手に恵まれていたこと,2に,詰め碁や手筋の本あるいはNHKの囲碁講座などでそれなりに勉強していること,で,3に,囲碁問題を作っていること,を追加して,定石の勉強をしたことがない割りには上達した方であろう.1,2および3は,それぞれ,「実戦での失敗と成功の蓄積」,「本や棋譜で知識の蓄積」および「考えたことの蓄積」に当たる.実戦は,長年,感を取り戻すくらいにしか打っていないが,囲碁問題を作っているお陰で,最近,囲碁が上達しているのが自分でも分かる.数学者は,これまでの最高のレベルの数学を学び,理解しないと先に進めないように,プロの棋士は最高のレベルの棋譜を並べ,一手一手の意味を対局者と同じくらい,あるいはそれ以上に理解しないとトップにはなれないだろうし,受験では,公式を覚えることによって簡単に高得点が取れるように,アマチュアも優れた本に出会い勉強することによって早く上達できるものと思う.しかし,囲碁はいつも応用問題の連続である.数学が単なる暗記ではなく,本当の理解をしているかが重要であるように,囲碁も本当の理解をしているかが勝負である.また,囲碁の上達のために蓄積は必要であるが,囲碁の楽しみの一つは,自分なりにいい手を考え出すことで,記憶・蓄積だけでなく,思考回路が早くなることでも案外囲碁は上達するような気もする.「実戦での失敗と成功の蓄積」や「本や棋譜で知識の蓄積」に比べると上達のスピードは遅いのだろうが,応用のためには「考え‘る’ことの蓄積」と「思考回路の開発」も重要な所以である.もともと囲碁やオセロゲームあるいは数学では,単純なルールから定石や公式を誰かが作ったものである.

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囲碁の勝ち方

 囲碁の場合,打つことに喜びがあり,負けた方が学ぶことが多いので,勝つことにそれほどこだわることはないのであるが,それでも勝とうと努力をしないと何も残らない.勝ち方には,具体的に言えば,1)地を稼いで勝つ,あるいは,稼いだ後に打ち込む,2)打ち込めないギリギリの厚みを勝ちに結びつける,3)圧倒的な模様を張り,入ってきたら攻めて厚みを作り,振り代わりを得る,などがある.個人的に言えば,地にこだわる人でも,模様にこだわる人でも,中盤において辺からの中央への盛り上がりを意識する,あるいは,もっと研究すると勝率が上がるような気がしている.私が,天元を早い段階で打つのもそのためだし,天元の前に‘石のつながりを考えながら’4隅の星,辺(4線)を打つのもそのためである.また,私は,星の次に4線を重要視している.3線や2線に打たないと言うわけでなく序盤にはできるだけ4線に石を置くと言うことである.なぜなら4線は,地を取るときでも厚みを作るときでも有利になるからである.特に,相手の弱い石を攻めながら模様を厚みに変える時にこの布石が効果を発揮する.この構想力のお陰で私より明らかに筋のいい方,上手い方に対しても比較的高い勝率を残せる.それが,よいかどうかは,同レベルあるいは少し上のレベルの相手との対戦で,例えば逆に33に打って部分的に定石程度の別れをしたとしても負ける確率が高かったりした経験からのものであり,プロがあまり4線を打たないのにはそれなりの確率,経験が影響しているのであろうが,プロになるつもりがないのであればプロと異なる発想もよしとすべきである.

 私は,以前,初手天元を打ちたいと思っていたこともあった.しかし,隅や辺の星の評価が高まり,初手天元を打つと相手によっては気分を悪くされるような気もするので,9手目以降の,あるいは,かかってきた場合はそれに応じたり,辺を打った後の,早い段階で天元付近を打つ程度にしている.各隅での定石を元にした折衝は,時に布石以上に急を要する時があると思われているが,9つの星の近くに石がない時にはそちらを先に打った方がよいものと思っている.布石は先着するかどうかが重要で,布石の中に隅,辺はあるが,中央がない.「中央の布石」も,隅の折衝より優先すべきで,辺の布石の後,天元あるいは中央に先着する価値は十分あると思う.

 こういった構想力は,低級者から高段者まで同じレベルの者同士であれば,特に黒番の対局であれば,通用する様な気がする.この布石のいい点は簡単な星からの定石を知っていればある程度打てること,問題点は,形勢が少し良くなりすぎることである.良すぎると,強い相手は少し無理をしてくるのでそれを咎める力,振り代わりをもらう読みの力があるかどうかが勝負の分かれ目で,厳しい戦いの碁になりがちである.それを避けるためには,良すぎないように,相手を怒らせないように,心がけてできるだけ厚く打つことである.言い換えれば,49を与えて,51を得る気持ちを持つことである.私達は,中盤,終盤に自信がない時,欲張りになりがちであるが,厚く打って置けばそのうち地もついてくるし,必要なとき少々の無理もきくからである.

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降段制度

 学生時代囲碁を教えてくれたのは同級生で,恐らく今までで1番対局数が多い相手だろう.100局以上相手をしてもらったと思う.その後,彼は県の代表クラスの域まで達したが,囲碁は向かないと言って今はやめている.当時,大学の初段でしたが,碁会所では4段の方に石を置かせていた.

 次に対局の多かった相手は10年ほど前に定年で辞められた上司で昼休みに数手打っては直し,半月ぐらいをかけて1局の碁を打っていた.2段ということで,3石置かせてもらっていたので私の力は1級くらいのものと思っていた.その方が定年後通い 始めた碁会所(プロも2,3人輩出している)では月に25戦して8割以上が昇段条件という厳しい条件の中で5段に昇格し,2004年には月例大会で3ヶ月連続全勝優勝で周りが面白くないからと6段に無理に昇段させられても高い勝率を残しているようである.81歳の方が強くなっているとは思えない(前から強かったの意味である).実際,私との置き石の数は,ここ数年で逆に減っている.弱くなっているとも思わないが,強くなっているはずがない.最近,常先か,互い先で打てるようになった(私が黒)のは,毎日MuramasAさんのページで1日に数手打ったり,詰め碁を作ったりしているので私の方が少し強くなったためである.

 二段と言っていたのは以前の日本の段のレベルであり,4段も昇段して六段になっているのは現在の日本の段のレベルではないだろうか? そうであれば,以前の段は今より三段は上で,中国などと同じであったような気がする.また,数えてみたら私が今まで30数年間に行った碁会所は,出張で時間のあるとき訪れた青森,石川,東京(2ヶ所),石垣,沖縄,福岡(3ヶ所),太宰府と地元の熊本(4ヶ所)など14カ所17回しか ないが,先日(2003年正月),分不相応なはずの3段として5段と4段の方と1局ずつ打って もらっても下手(したて)と打っているような気がしてしまった.

 このように,囲碁の段や級は,以前に比べてかなりインフレになっているようである.プロの段はよく分からないが,聞くところによると九段の方が多くなり,戦前と比べやはりインフレになっているそうである.この結果,韓国や中国に対し,日本の棋士はプロもアマも同じ段級で打ったとき敵わなくなっていると言われている.伸び盛りの若手が多くいればインフレにはあまりならないかも知れないが,今のインフレ状態を改善するためには,降段制度を作るのがいいと思う.段級を下げるのに誰もいい思いはしないと思うが,適正な段級を維持するためには降段制度を導入するしかないような気がしている.8割が昇段基準であれば,2割しか勝てなかったら自己申告で降段としてはどうだろうか? 適正な,分相応の段級で,ある程度勝率を残せた方が楽しく碁が打てると思う.

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囲碁の格言

 日本語では,「捨て石」,「目算」,「駄目」,「傍目8目」,「一目置く」,「大局観」,「布石」,「定石」,「駄目押し」,「死活問題」,「次の一手」などたくさんの囲碁用語が本来の意味を理解されないまま一般に用いられる一方,囲碁には,手筋などの指針となる格言が他のゲーム以上にたくさんある. 「二目の頭は見ずハネよ」, 「二立三折」,「三目の中央に急所あり」,「一間飛びに悪手なし」,「サバキはツケから」,「外ダメから詰めよ」,「ノゾキにつがぬ馬鹿はなし」,「死はハネにあり」,「ポン抜き30目」,「大場より急場」などなどで,これらの格言は,知らなくても囲碁を打つことはできるが,形を覚えるのに役に立つ.

 囲碁は自由で,自分で考えるから面白いといいながら, 私も,いつの間にかたくさんの格言を覚え,それを参考にして打っている.囲碁で私たちが実際に打っている手の大部分は自分で読んで打っている訳ではない.かなりの着手は,どうも優れた先達の残した経験で打っているようである.実は,囲碁というゲームは,頭脳ゲームなのに読みの世界が案外少ない.確かに詰め碁的局面や寄せでは論理的に読むという思考方法が行われるが,大部分の着手は,経験から学習したものである.しかも,経験と言っても本人の経験だけでなく,これまでの先人の碁打ちの経験までもが私たちの着手に生かされている.そして,先人の優れた碁打ちの経験を集約したものが,囲碁の格言だと考えると納得できる.

 「二線は敗線」と言う格言を教えられ,2線を這って2目で生き,相手に厚みを作られて負ける経験を何度かすると先人の経験をなるほどと自分の経験として納得することができる.しかし,「二線は敗線」と分かっていても打たなければ死んで碁がそこで終わる時,小さくても生きれば相手の石を攻めることができる時,相手の模様の中に入って荒らす時,など必ずしも「二線が敗線」とは限らないのも囲碁の面白さである.「二線は敗線」と言う格言は,二線を這うと負ける時が多いので,できるだけ打たない打ち方をした方がよい,程度の先輩からの助言である.

 このように,これらの格言が絶対に正しいのかと言えば,例外の局面も多く,その結論も出ていないことの方が多い.「四隅とられて碁を打つな」と言ってもプロの対局で武宮九段は四隅とられて勝つことも多い.「スソアキ囲うべからず」と言っても最後は少しでも囲わなければならない.「切り違い,一方伸びよ」と言っても2線や3線では当たりにした方がよい時もある.「二目にして捨てよ」と言ってもそうしたために相手に生きられることもある.多くの格言は,「そう打った方が今までの経験から良さそうだ」程度で,プロの対局でも格言通りに(格言を分かっていても)打たないことがある.

 囲碁の序盤や中盤では,格言を参考にして着手を絞り,その中から自分の好みにあった手を選ばないと,選択肢が多すぎてプロのように真剣に取り組んでいたらいくら考えても答えが出ず,納得できる手は打てないはずである.そのように囲碁を打つ人が着手の拠り所としている囲碁の格言の多くは,詰め碁や寄せのように論理的な思考から出たものではなく,したがって絶対に正しいものではなく,単に経験から生まれた指針だとしたら囲碁は面白くないと思うであろうか? 自分の一手と思っていたものが,先輩の経験に影響されているとしたら面白くないであろうか? 私の答えは,「No」である.囲碁は奥が深く,論理的でない要素が多いから面白いし,格言は自分で経験して納得すれば自分のものにもなると考えても,自分の打つ手も歴史の中の一手であると考えても面白い.さらに言えば,「シチョウ知らずに碁を打つべし」で死ぬ事が分かっていてシチョウを逃げたり,「ツケコシ切るべし」でツケコシを切ったり,これまでの格言の通り打たなくてもそれなりの戦いができる時もあるので囲碁は面白い.

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囲碁の楽しみ方

 プロを目指していた元院生のあてこみさんは,「修行時代,アマチュアの方々が楽しそうに打ってるのが凄くうらやましかったのを覚えている.年中常に真剣な対局なので,「打っていて楽しい」と感じることがほとんど無かった…院生などで誰かと仲良くすると,その子と対局するときは辛かったりした.誰であろうと蹴落とす気でないと,生き残っていけない.」と私の掲示板に書き込みをしてくれた.囲碁は楽しいものと思っていた私にはショックでした.

 私は,DNAの分析も行う科学者の端くれでもあるが,江戸を中心に発達した園芸文化の研究をライフワークにしている.江戸の初期にはいろんな道があった.鎖がま道や百姓道など今では考えられないものに対し,道(道とは何か書くと長くなるが)を究めようと努力をしたようである.強くないと,あるいは,強くならないと囲碁道は極められないと言うものではないと思う.岡倉天心が,決して本人に芸術家としての才能,技術があったわけではないように,スポーツの名コーチが必ずしも名選手ではなかったように,アマチュアでも天石流のような理論を組み立てる人がいてもいいと思う.天石流では,2003年7月に誠文堂新興社から「新手法」(上・中・下巻)を出している.天石流の囲碁史概観の中に「天石流は種を蒔く,育てるのは若い人だ」と書いてあるが,天石流の様な感覚・理論を発展させてトッププロで活躍される方が出てくると面白いだろう.

 囲碁は強ければいいというものではない.それでは,囲碁は何かというと第一義的には遊びである.かけがえのない遊びである.まずは楽しめばよいのであるが,遊びを超えて学べるものがあるので夢中になっている人が多いのではないかと思う.囲碁で学んだ「論理性」や「諦めないこと」などなどは,私の人生の中で役に立っているし,これから囲碁を知る人にも役に立つと思っている.囲碁は強ければいいというものではない.まずは,楽しむことで,楽しみながら人それぞれに何かを学べる.

 囲碁では,大部分の着手が読みからではなく,打つ人の構想を実現させるために経験から選ばれる.相手は,直接的にそれを阻止したりすることは少なく,逆に相手の構想を実現させてあげるのを認めてあげる代わりに自分の地を増やすという構想を成立させて優位に立ったり,相手の構想を値切ったり,する所が他のボードゲームにない囲碁の特徴である.読みは最後の最後に必要になってくる.従って,囲碁を打つと知らず知らずのうちに,構想力が生まれ,それを実現するための相手との上手な交渉力が養われ,最後の詰めができるようになり,経験として身に付いて行く.

 最後に,この「囲碁観」は,あくまで私の「囲碁観」である.このページで応援している大矢九段が朝日新聞での「柳―武宮」戦の解説で武宮九段の碁は定石が通用しない旨書いておられたが,定石が通用するかどうかは,囲碁のタイプにもよる.武宮九段も当然定石を知り尽くし,その上で定石にない手を,神のみぞ知る中央に夢を求める手を打っていると思う.私の場合は,「下手でもよい」,縛られない自由な発想でオリジナルな碁を打ちたい,と思っているだけである.上にも書いたが,定石とは,「才能のある先人が長い年月をかけ,苦労して作ったすばらしいもの」で,強くなるためには勉強しなければならないものだとは知っている.また,勉強をしたことのない私でも相手が打ってくるので独りでに定石を勉強していることになっていると思う.ただし,定石を勉強しなくても囲碁を楽しむことはできる!囲碁は自由で,色んな楽しみ方があるから楽しいのである.

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局前人無く局上石無し

 瀬越憲作名誉九段の手談の最終章「碁の妙味」の中に「最善を求むる態度には,みじんも欲があってはならない .なおその上自他の念を去って,局前人無く局上石無しの境地に入って,はじめて最善の手段が得られるのである.この境地に遊ばれ る人は巧拙に拘わらず精進を楽しむといえる.碁が強くなるのはもとより結構であるが,むしろ碁道の幽玄を味って頂きたいことを私は希望する.」なる文章があった.

 初めての学生に囲碁のルールを教え,説明しながら9路盤で打ったときのことである.初心者と打つと面白い形が出てくる.中にはちょっと面白い詰め碁問題も出てくる.そんなとき考え出したら面白くて相手はこちらの思うように絶対打たないのは分かっていても没頭してしまったことがある.もともと私は形で打つより自分で考えて打ちたいと思っており,ゆっくり考えたいと思っているのであるが,こちらの思うように打つはずのない相手に最善の手を考えている自分にその時はあきれてしまった.

 普段は出来るだけ早打ちするのであるが,一度はプロのように1局に数時間かけて「碁道の幽玄を味いながら」打ってみたいと思っている.巧拙は別にして「局前人無く局上石無し」とは,囲碁では,多くの場合,実際の相手と打っているのではなく,「最善の手を打ってくる架空の相手」と碁を打っていることを意味するのではないだろうか?「最善の手を打ってくる相手」とは,本人が稚拙であれば稚拙なりに「最善の手を打ってくる架空の人」,プロのような方であれば「最善の手を打ってくる神」で,いずれにしても考えているときに戦っているのは,目の前にいる実際の相手と言うより最善の手を打ってくる架空の相手だと言うことを「局前人無く局上石無し」と表したものと思う.

 しかし,アマチュアでは,最善の一手を打ったつもりでも多くの場合上手(うわて)に咎(とが)められるであろうし,プロにしても,詰め碁や寄せ以外,神の一手を想定することは永久に出来ないのかも知れない.「最善を求むる態度には,みじんも欲があってはならない.」の欲とは,相手が神の一手を打つわけがない,間違ってくれるであろう,と言う欲のことだと思う.実際には間違うことを期待しなくても人は間違いを打っているのである.相手が間違うのであればその時点での最善の一手を打って咎めれば囲碁は勝てるはずである.囲碁で気持ちのいい相手とは巧拙に拘(かか)わらず本手を打つ相手,気持ちのいい対局とは相手が間違うことを期待しないで打たれた対局である.アマの多くの人が自分より強い人と打ちたがるのも,プロがさらに強くなりたいと思ったり,上を目指すのも本質は同じなのかも知れない.それは,プロにとってもアマにとっても囲碁の魅力が,「巧拙に拘わらず精進を楽しむ」ものだからである.

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将棋と囲碁

 中学時代,友達と将棋をよく打っていたが,囲碁を覚えてからはほとんど打っていない.将棋は,序盤での形がある程度決まっていて,また,すぐに詰め将棋的な終盤に入るので自分の自由な発想を楽しむ局面が囲碁より短いと思う.終盤の詰め将棋的な局面では,読みの要素が多く,序盤でも少し間違えると取り返しがつかないことが多いので,一手一手を深く考えながら打たなければならない.このようにいつも相手より深く読むことを心がけながら,将棋を指すことは考える楽しみ以上に苦しみでもあるとも思っていた.

 一方,囲碁は広く,布石や中盤などは,自由で自分の発想を試すことができる.定石はあるが,定石を知らなくても囲碁は打てるし,定石にも大雑把に言えば地と厚みという正反対のものが存在する.言い換えれば,地と厚みという正反対のもののどちらが優れているとも言えない.本当に自由で,大きな模様を張ろうとか,ここは地を稼ごうとか想像しながら,夢を見て,打つことができる.相手もいることなので夢は中々100%の現実にならないが,そこが失敗しても別の場所で次の夢を見ることができる.たとえ間違いをして自分の石が死んでも他の場所で挽回が可能であるし,多くの場合,その死んだ石を利用する手があったり,捨てたりすることが勝利に繋がったりするので死活についてさえも気楽でいられる.

 詰め碁的な局面は「それなり」に苦しんで考えないといけないが,1局でも比較的限られているし,地の囲い合いだけで詰め碁的な局面が全くない対局,上げ石の全くない対局もある.また,1局の手数約200手の中で詰め碁的に最後まで読み切らないといけない局面はアマチュアが打つ場合,数手にすぎず,残りの手は比較的気楽に打てる.張りつめた局面が比較的少なく,数手であれば死活を読み切らないといけない局面も反って楽しいものになるし,多くの場合対局者に死活の判断ができる所まで打ち進められるものの打上げられる前に判断がなされ,新たな展開がなされる.このように,囲碁の場合,今度はどういう手を試そうかなど,打つ楽しみの方が多く,どういう手を打ってくるのであろうかと相手の手をわくわくしながら待つことができる.囲碁は打つのが楽しい所以である.繰り返すが,囲碁は,自由でどこに打ってもいいから楽しいのであり,自分の手,相手の手の中に,あるいは本の中に,たくさんのおもしろい手,アイデアを見つけることができるので楽しいと思っている.

 将棋の好きな人には叱られるかも知れないが,このように将棋はずっと張りつめていなければならないので打つのが苦しく,囲碁は比較的気楽に,また感覚で打てる手数が長いので打つのが楽しいと私は感じている.ただし,間違えると致命傷になる詰め碁,詰め将棋は,苦しいと書いたが,考える楽しみを覚えると,新しい発想を思いつく喜びを知ると,その苦しみが楽しみに変わることもある.将棋の好きな人はそこが好きだと言うであろう.また,アマチュアと違ってプロの棋士は苦しんで打っていると聞いたこともある.序盤から終局まで最善の手を求めて呻吟しているからであろう.

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神の一手

 囲碁は基本的に,道具として19本の線の入った盤とその線の交点に置く黒と白の石を用い,1)周りを囲めば相手の石を取れる,というルール(手段)と,2)勝敗は取った石の数と囲んだ点の数の合計を競う,というルール(目的)で行われる.囲碁の2番目のルールで,2)勝敗は取った石の数と囲んだ点の数の合計を競う,と書いたが,普通は取った石の数より囲んだ点の数の方がずっと多いので,2番目のルールは,2)(取った石の数はおまけで)勝敗は主に囲んだ点の数の合計を競う,と言ってもよく,対局者は石を取りに行くのではなく,まず地を取り(囲み)に行く.本気で,石を取りに行くのは,相手が隙を見せた時ぐらいで,普通は,石を取りに行く振りをして地を取りに行くことの方が多い.一般には,模様や厚みを作ることは,地に辛いことの反対のように考えられているが,これらも石を取りに行っているのではなく,地を取りに行っているのである.実は,この簡単な二つの基本ルールのユニークな組み合わせだから,思いもよらない発想がいっぱい隠されていて,それらを発見することも囲碁を打つ楽しみで,19路盤という大きさも実によくできていると感心している.ウッテ返しや捨て石作戦など最初に見た時には驚き,感心したものである.

 小さな碁盤で,取った相手の石の数だけを競うという石取りゲームがあると聞いているが,囲碁のように奥の深さは生まれないであろう.囲めば相手の石を取れるという「手段」とその取った石の数(だけ)で勝敗を決める(ので取るのが「目的」)という「目的」が共通するルールであれば,将棋,チェス,オセロゲームあるいは五目並べと同じようにゲームとしては分かりやすいと思われるが,囲碁のように訳の分からない世界が少なくなり,読みだけがより重要になる.読みだけであれば人間よりコンピュータの方が強い.それらのゲームでは,プロでもコンピュータに負けることがある所以で,五目並べに至ってはコンピュータで先番勝ちの結論が出たと聞いた.一方,囲碁は,読みだけでは到底判断しきれない奥の深さのため人間の優位性が保たれるであろうと考えられている.この奥の深さを生み出したのが手段と目的が異なるという二つの基本ルールのユニークな組み合わせではないかと思う.

 ところで,コンピュータでの結論などにより,勝つために打つ初手が神の一手であるとすると私は神の一手とは「天元」か「4隅にある星」であるような気がする.コミがなければ黒が勝つことは明らかなようで,しかも神の一手は複数あるに違いない.コミがあれば,「一番たくさん勝てる初手が神の一手」で,コミの数は,その結果から割り出されるものであろう.しかし,囲碁では19×19=361の階乗を点対称なので4で割った組み合わせだけでなく,石を取る,捨てる,捨てた石が復活するなどを考えると神の一手は遠い将来のコンピュータとプログラムでも割り出せそうな気がしない.

 19路盤という大きさも実に妙である.もっと狭くなると厚みより地を取る方が有利になるか,地と厚みの区別がつかなくなるであろうが,広すぎても厚みを作った時打ち込むスペースがさらに広く残るので厚みが模様的になる.19路盤は隅が地と厚み(模様)で分かれた時,厚み(模様)の中に打ち込めるちょうどいいスペースで,その攻防を楽しめるようになっている.基本的に二つの単純なルールなのに囲碁は奥が深いのでほとんどの局面で多くの選択肢があり,どれが優れているのか結論が出ない.例えば,布石では,模様を張ったり,足早に大場を押さえたり,地に辛く打ったり,厚く打ったりするようないろんな打ち方があるが,どれでもそれなりの勝ち方ができる.その攻防には読みより経験から学習したものが役に立つのも面白い.

 また,定石に詳しいから,筋がいいから勝つとは限らないし,詰め碁や寄せが得意だから強いとは限らない.奥が深いということは上には上がいるという意味でもあって,プロ同士でも強い棋士は弱い棋士に滅多に負けないということは,さらに強い棋士が現れても,さらに,さらに強い棋士が現れてもおかしくないということである.その強い棋士は,定石や定石の選択,布石でも相手より深い研究をし,中盤でも相手より先まで考えることができ,寄せや詰め碁的局面でも相手より早く気が付き,正確に読み切ることができて生まれるであろう.しかし,そんな達人が二人いても神の一手(初手)の結論を出す棋譜,白も黒もベストを打った時,黒が半目勝つ棋譜,から見ると間違いだらけの棋譜しか残せないに違いない.

 以前の多くの職場では,1時間もない昼休みにわいわいと2局も3局も打つ光景が見られた.年に千局打ってもあまり強くならない人もいたが,こういう人たちも囲碁の裾野を形成し,本当に囲碁を楽しんでいた.今は,強い人,強くなりたい人,その適性のある人しか趣味家として残らないのが問題である.囲碁は,気楽に楽しみたいものである.

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終局

 一般的に終局は,終局 に示しているように囲碁の合理性からそれ以上打っても結果が変わらない局面と説明できるものと思っていたが,7路盤の囲碁問題を作っていて終局が分からなくなった.そこで,ととちおさんと,囲碁規約の九条などを参考に,終局について考えてみた.しっかりルールを知っていないと終局できないことが出てきそうである.


(1) 一方が着手を放棄し,次いで相手方も放棄した時点で「対局の停止」となる.
(2) 対局の停止後,双方が石の死活及び地を確認し,合意することにより対局は終了する.これを「終局」という.
(3) 対局の停止後,一方が対局の再開を要請した場合は,相手方は先着する権利を有し,これに応じなければならない.

 基本的に終局は,パス(着手を放棄)を1回ずつすることによってまず停止が成立し,双方が石の死活などを確認後終局となる.ここで,まず疑問に思ったのは,黒と白が交互に打つと言う囲碁の基本的なルールがあるのに,「パスをして相手が納得しないとき,2手連打するのか」と「パスをして2手連打をされた後,どちらが勝っているか分からなくなった時には,また再開するのか」であった.パスだから2度打ちをしたという話は聞いたことがなかったので,確認であった.思っていた通り,ととちおさんから「パスをすれば打つ必要はなく,相手が2手連打する」と「パスした人がその後また打つことは可能である」ということであった.事例は知らないが,2手連打して逆転があったことや連打された後に再開されたことがあってもおかしくないような気もする.という訳で, 絵文字囲碁問題第102作 第3問の場合,一度は,両者パスで停止後,セキで終局となる.結果として,白は1目もないのにコミが3目半あるので勝てると言う今までにない形ができたと思っていた.

 しかし,ととちおさんに再度指摘されて九条-3、十三条-1の両者パスの後の再開のを見るとややこしくなった.それによると,

“相手方に先着する権利あり”


(1) 対局を再開する場合は,停止期間中に規定外の着手があれば,それらを無効として再開することができる.
(2) 対局再開を要請した相手側から打ちはじめる.
(3) “これに応じなければならない.”

とある.一般には,一度両者パスで対局が停止した後,相手方に先着されると負けになる場合はあると思うが,相手から打っても自分が逆転勝ちできる場合は考えられず,再開の要請はしても意味がないというのが規約の含意であろう.しかし,私の作った 第3問の場合には先着したら負けなのでどちらも先着したくないのである.ということは,“相手方に先着する権利あり”と“これに応じなければならない”を逆手に取れば簡単に逆転となる.ただし,「要請された相手方が着手の必要性を認めない時は,パスで応じて差支えない.」という注釈があり,これによって対局の停止後,再開を要請しても意味がなくなり,結局再開をしても「両者パスで結局は同じ形で終局になる」と思った.

 と書いていたら再度ととちおさんから「両者パスの後,白が再開を要請して黒を取れる」という指摘があった.「3手目で,白パス→黒パス,で対局停止の後,白は終局に合意せず,再開を要請すれば,黒番になり,黒はパスをしても,ダメを詰めても,白はコウを取って黒の打つ手がなくなる.パスというのは着手の権利の行使なので,パスパスの後ならコウは取り返せる」というのである.こうなると 第3問の場合,3目半のコミがなくて白が負けていても停止後の再開で大逆転である.

 パスパスの後,コウを取り返せるかどうかが焦点である.ととちおさんは「パスというのは着手の権利の行使なのでできる」と言う.さらに,ととちおさんの情報で,ここのアプレットを作っていただいた鄭銘コウ九段の実兄の王銘エン九段がこの問題と関連する手入れ問題に言及していた.

 ととちおさんと同様,王銘エン九段も,規約から言ったら「パスパスがコウ立てになる」と書いている.ただし,プロの中でも「パスパスがコウ立てになる」という規定を知っている人は少ないそうである.また,この考え方は平成日本ルール改訂のひとつの重要な柱で,その必要も必然性もあるそうである.王銘エン九段も「説明がチョー長くなるのでスルーする」ということで,王銘エン九段の考え方を私はよく理解できていない.王銘エン九段による実例の説明では,山下敬吾棋聖に趙治勲九段が挑戦した2008年の棋聖戦第五局で一手ヨセコウの手入れについて週刊碁から全国紙まで解説が「パスパスがコウ立てになる」という理解で間違っているというのである.

 「パスパスがコウ立てになる」のであれば,ととちおさんの書いているように,対局停止の後,白は再開を要請し,黒はパスをしても,ダメを詰めても,白はコウを取って黒を殺せる.しかし,ルールを知っていれば「停止後の再開」で逆転でき,知らなければ逆転できない,というのは,おかしいと思う.ルールとはそんなものと割り切って考えればそれまでだが,囲碁が面白いのは,単純なルールで合理性があり,奥が深いからである.また,囲碁で一回負けた対局を再開すれば逆転できるというのは本質的におかしいと思う.詰め碁やプロの棋譜には,なるほどと思うことが一杯隠されているのに,行き着くところは「白と黒が交互に打つ」,「囲めば取れる」,「勝ち負けは囲んだ目の数と取った石の数が多い方が勝ち」という単純なルール というところである.私は,他に必要なルールは劫のルールくらいで,シチョウを知らなくても碁は打てると思っているし,禁止点のルールも「隅の曲り4目は死」というルールも不必要だと思っている.3劫無勝負や終局 についてはルールというより元々のルールからの必然性,合理性が感じられる.今回の場合は,囲碁規約から王銘エン九段やととちおさんが考えている「パスパスがコウ立てになる」というルールの解釈ではなく,劫材を打たないと劫を取り戻せないという元々の劫のルールを適用すればすっきりすると思う.週刊碁や全国紙の解説の方が正しいということはないのであろうか.

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囲碁のルール

 

 絵文字詰め碁を作っていて面白い形ができた.黒は1眼でダメが一つ空いているのでそのダメを詰める事はできない.白は遥か遠くに1眼あり,そこからはしご状に欠け目が伸びている.白からダメを詰めると白は全滅であるが,白から欠け目を詰める必要はない.従ってすべての欠け目は生きている.作った問題ではこの欠け目が20目ほどで,生きている石の目が地であるとして計算していいのかどうかで悩んでいた.これは,囲碁の合理性から判断して地にしても良いとも思われた.

 セキの地についてtomo15さんから「セキ石以外の活き石の目を地という」というルールを教えてもらい,「やっぱり!!!」と思った.実は囲碁のルールにあまり詳しくない私でもそんな話を聞いた事があったからである.という事はいくらたくさん取られない欠け目があっても地としては数えないという事である. このルールも囲碁の合理性から判断して理解できない事ではないので,納得した.

 「納得した」というのは,重要なルールだと思ったという意味である.「隅の曲り4目は死」のルールはあった方が便利はいいとしてもなくてもいいルールであれば囲碁の合理性から考えると「隅の曲り4目は死」のルールは必要ないと私は思っているし,実際,中国ルールでは「隅の曲り4目は死」というルールはないと聞いている.そんな私が「セキ石以外の活き石の目を地という」というルールに納得したというのは,「囲碁のルールは必要最小限であるべき」と考えていても「セキ石以外の活き石の目を地という」というルールがなかったら地の計算が違い,どちらの考え方も囲碁の合理性から間違いではないので,このルールは必要であると思ったという意味である.

 まとめてみると囲碁の基本的なルールは,


1)黒石と白石を持つ二人が,19の縦線、横線の交わった点に交互に石を打つ.
2)周りを囲めば相手の石を取れる.
3)囲んだ点の数と取った石の数の合計を競う.

の三つでよい.この他,「コウを取られた時,すぐにそのコウを取り返すことはできない」という劫のルールは知らないと碁が打てないルールである.さらに,追加的なルールとして「セキ石の目は地として数えない」というルールも最低限のルールだと思った.

 よく言われる3劫無勝負や「呼吸点のなくなるところへは打てない」という日本囲碁規約で決まっているルールは,「隅の曲り4目は死」というルールと同様,囲碁の合理性からある程度必然的に出てくる考え方である.3劫無勝負はルールがなかった織田信長の時代でも引き分け(無勝負?)になったはずだし,呼吸点のなくなるところへ初心者が打った時にはもらえばいいだけでルールにしなくても構わないと思う.さらに言えば「シチョウを知らずに碁を打つな」と言う人がいるかも知れないが,知らなくても石を取られるだけで碁は打てる.実際に「シチョウを逃げたらいけない」とか「2眼は生き」というルールはない.前の三つのルールは,ルールではないこの二つと大して変わりない.

 前に書いた終局のルールも特殊な例で,一般にはそれ以上打ったら損をする,あるいは得をしない段階が終局で,パスをしなくても囲碁の合理性から必然的に出てくる.パスが劫材になるかどうかは必要なルールかも知れないがプロでも知らない方が多い程度のルールである.コミもルールというほどのものではないような気がしている.実際,常先や置き碁をルールという訳ではないし,6目半でなくても4目半のコミで打とうと対局者が決めてもいいはずである.プロの対局や大会のルールに過ぎないと思う.3劫無勝負のように分かりやすくはないが,コミの考え方(=ルール?)も囲碁の合理性から必然的に出てくるものだと思う.ただし,6目半などコミは,黒にギリギリの手を強要し囲碁を面白くするために,また,神の一手に近づくために,欠かせないものとも思っている.

 ただし,私は囲碁のルールにそれほど詳しくないので,私が知らないだけで絶対必要とされるルールはまだあるかも知れない.ただ,オリエさんが書いていたが,人に囲碁を勧める時,囲碁はこんなにルールがあって面白いですよと教えたいとは思わない.囲碁はこんなに簡単なルールなのに奥が深いのですよと教えたいものである.

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絵文字囲碁問題

 絵文字詰め碁を作り始めた頃,「文字」詰め碁を作っていたプロの棋士の方の問題を MuramasAさんに紹介してもらって干支の文字詰め碁を見たことがある.私のようなアマチュアには作ることのできない,相手にならない高級な詰め碁だった.「文字」詰め碁は難問ばかりだったので,プロの方にはプライドがあるのだろう,それなら私は,開き直ってアマチュアの特権で,解くのにストレスのあまりかからない問題を作ろうと決めた.「文字」詰め碁と言った方がいいのではないかとも言われたが,文字より絵が多かったので「絵文字」詰め碁という名前にこだわった.その後,詰め碁ばかりでなく,勝敗を問う問題や寄せ,手筋の問題なども加わったので,その時には,絵文字「囲碁問題」と呼ぶようにしている.

 詰め碁は,できないとストレスを感じるが,ストレスを感じるくらいの問題を解かないと強くならない,という相反する面があり,あまり簡単な問題ばかりでも面白くないだろうと私の棋力なりにいろんなレベルの問題を作ってきた.さらに,ストレスを感じる詰め碁を楽しくできればと第5問に絵文字囲碁問題を入れた.特に,「クリスマスツリー」や「トンボ」の問題のように,ちょっと考えさせる問題で,最後に全部の白石を取り上げるという爽快感が味わえる問題が作者としては気に入っている.

 途中から絵文字囲碁問題に名前を付けてもらう名付け親シリーズを始めた.フェイスマーク名付け親シリーズで楽しんだ経験があり,遊んでもらえる方たちと一緒に問題を作れるという喜びが付加された.さらに,シーズーさんやしょうた君など子供達が楽しく遊んでくれるのは思いもかけない喜びだった.そして,何と言っても一番楽しんでいるのは,解いてもらえる人が驚くような問題を作ろうとしている私自身だった.

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相手が間違えることを期待しない習慣を身につける問題

 詰め碁,寄せなどの問題には,答えがあり,「正しいものは正しい」世界で,布石や定石のように「答えの見えない世界」と異なることは,「答えのない世界とある世界」に書いた.また,詰め碁でも,寄せでもなくても,明らかな「最善の別れ」が存在する局面も多い.ただし,囲碁の場合,実践では部分的には正しくても,「捨てる」あるいは「手を抜く」という判断もある.また,「最善の別れ」の問題は,これまでいくつか作って来たが,作る人の技量が関係していて,あてこみさんから鋭い指摘を受けたように,少し複雑になるだけで微妙によい手が見つかることもあり,問題を作る時には正解かどうか自信が持てないことも多い.それでも,私はこのような「正しいものは正しい」世界の問題として詰め碁,寄せ,最善の別れ問題を考えていたが,これらを見方によって別の形で大きく二つに分けることができることに気が付いた.

 一つ目は「死活がはっきりしている詰め碁問題」で,一手目だけが正しいものである.劫ではなく死活がはっきりしている詰め碁問題の2手目(相手の手)は,回答者が間違えそうな手を選んでいるだけで本来なら意味がない.最善の手ではなく,相手が間違えないか試しているだけの手にすぎない.なぜなら死活がはっきりしている詰め碁で最善の一手は最初の一手だけで,2手目以降の受け手は,後のコウ材のことを考えると「打ってはいけない手」だからである.しかし,2手目以降をすぐに打たれても困らないように,また,後になって劫材などとして相手が打って来ても困らないように,いろんな手の対応を考えておく必要がある.詰め碁問題の場合,正解は最初の一手だけで,2手目以降は,一手目が正しいかどうかの確認の手,あるいは勉強のためのサービスの手であると考えたら良い.繰り返すが,難易は別にして詰め碁的な局面であれば,また,「捨てる」あるいは「手を抜く」という判断は別にすると,詰め碁的局面の正解は一手のはずである.詰め碁を作る立場で言えば,いろんな2手目を考えて確認するが,別な次元でどれも正しくないのになあと思う.

 実践で,下手に対し教えてあげようと言う気持ちでなく,単に勝ちたいという思いから相手が間違うことを期待して,生きていると分かっている石を取りに行ったり,死んでいる石を生きに行ったりする手を打つのは考え方にも問題がある.ただし,打ってみないと死活が判断できない時には,判断できる所まで打ってみるのはその人の技量であるし,された方からすれば,よけいなことをするのは後のコウ材を減らしたり,ダメが詰まって来た時に手ができたりするのを放棄したことになると喜べばいい.また,アマチュアでは打ち進めてみないと死活の結論が見えないことも多く,自分の生きている所を死んだ,あるいは相手の死んでいる石を生きていると間違って判断して相手に先に打たれて負けてしまうことも私にはよくあるので2手目以降の納得する所まで打ってしまう気持ちもよく理解できる.ただし,普段詰め碁問題で「相手の間違いを誘う手」ばかり見ていると私たちは知らず知らずのうちに感覚が麻痺して,相手の間違いを誘う手,言い換えれば,自分に都合のいい手を考える習慣がつくような気がする.また,囲碁を打つ人は誰でも「相手が間違える」ことが前提で囲碁を打っているので,どんなに潔癖性であっても実戦で「相手が間違えることを期待しない習慣」は身につかないと思う.「相手が間違えることを期待しない習慣を身につける」ためには,正解のある問題で勉強するしかない. 

 もちろん,「死活がはっきりしている詰め碁問題」が役に立たないと言っている訳ではない.私の作った詰め碁問題もほとんどが「死活のはっきりしている詰め碁問題」であるし,古典問題にしても新作問題にしても,難問にしても初心者用の問題にしても,作者本人の,あるいは,作者を育てた過去の,すばらしいアイデアの宝庫である.しかも詰め碁は詰め碁作者だけが作るものでもない.私たちが普段打っている実践の中にいくつもの詰め碁があったり,隠されていたりもするので囲碁を打つ人は全て詰め碁作者でもある.私たちは,囲碁を打つことでライバルと詰め碁を作り続けている.それらの実践の経験や過去の問題から学び,作者のアイデアを加えたものが詰め碁問題である.さらに別の見方から,詰め碁問題は,攻めの「殺す詰め碁」と守りの「生きる詰め碁」に分けられるが,全く逆の立場の問題を一般には区別をせずに詰め碁問題と言っているのも面白い.

 二つ目は「寄せ問題」,「正解が劫になる詰め碁問題」あるいは「最善の別れ問題」で,白黒の全ての手に必然性のある一本道のもの,あるいは同じ結論が出る少数の選択肢のあるものである.選択肢にしても必然性があり,「死活がはっきりしている詰め碁問題」のように2手目以降に必然性がないものではなく,白も黒も最後まで最善の手を考えないといけない問題である.「寄せの問題」では,応手も最善の手を打ってくることを前提に問題の作者は作っているはずである.また,「劫になる詰め碁問題」では,どちらかが間違えると死になったり,生きになったりするので,2手目以降も最善の手のはずである.相手が間違えないことを前提に,言い換えれば,相手が間違えない神であるつもりで全てを読み尽くした問題が「寄せ問題」や「劫になる詰め碁問題」で,私の言う「最善の分かれ」の問題である.といっても私自身,正解が「劫になる詰め碁問題」は,解くのに疲れるので好きでないし,棋力がないので,私の作る問題に劫の問題は多くない.碁の好きな人でも,高段者でも,私のような人が多いような気がする.また,囲碁そのものは勝負事であるので,実践では負けていれば少し無理な手も打って勝負してくるのは当然である.実践ではなく問題では,十分な検討の上,適当な局面が存在し白からも黒からも最善という結論の出る局面がこの対象となる.相手の最善の手も合わせて読むという訓練,すなわち「相手が間違えることを期待しない習慣を身につける」訓練としてこういう問題の方が「死活がはっきりしている詰め碁問題」より好ましい気がしてきた.

 強い子供を育てる時には「考えるな!,形で打て!」と教えていると聞いた.おそらくその方が早く強くなるし,本で勉強する方がいいことは分かっている.ところが,私の場合,囲碁を勉強する時間がないと言って,最初から自分で考えていることが多いので結局時間を浪費している.これまでの長い囲碁の歴史の中でたくさんの人の経験やアイデアを吸収して育ったプロの人たちの作った本で勉強すればもっと簡単に,正しく,早く強くなれるのにである.また,もっと対局をすれば相手の手の中にもsaiや秀策やたくさんの人たちが考えだしたアイデア,私の知らなかったアイデアが生きているのにである.その時間の浪費の例になるかどうかは分からないが,数年前,実践で隅のスソ空きの形ができて,比較的単純な形ではあったが,それでも考えだしたら手抜きをしていいのかどうか,納得できる結論が出なかった.こんな問題は,ずっと昔に検討され尽くしているはずであるが,私には新鮮でわくわくするものであった.そこで,後で検討し,裾空きからの隅の詰め碁問題を作った.しかし,隅は石が一つずれるだけで答えが変わるので私には怖い世界で,劫の問題が多く生まれ,失題ばかりであった.この時,詰め碁には白黒の全ての手に必然性のある「劫になる詰め碁問題」と一手目だけが正しい「死活がはっきりしている詰め碁問題」に分けられることに気付き,「相手が間違えることを期待しない習慣を身につける」ためには,強くなるためには,もっと「正解が劫の詰め碁問題」を解くのがいいとも思った.

 また,最近,私は,9路盤や13路盤のように小さな碁盤を主に使って完結型の寄せの問題を作っている.この完結型の寄せの問題には,先手が勝つ詰め碁と劫になる詰め碁があるように,二つのタイプがあることに気が付いた.一つは最終的に先手が勝つ問題で,この場合,正しいのは1手目だけで,後手には正解の手がない.もう一つは,引き分けになる持碁の問題で,白も黒も最善の手が存在する.もちろん,先手が勝つ問題が悪かったと言っている訳ではなく,(勝ち負けが全てであれば)後手に最善の手がないと言っているだけのことである.部分的な寄せの問題との違いは,部分的な寄せの問題であれば一番被害が少なくなる後手の手が全体の逆転を生む可能性があるので,それを正解と考えてよい.すなわち,部分的な寄せの問題は,白黒の全ての手に必然性のある問題,「相手が間違えることを期待しない習慣を身につける」ための問題と考えてよい.

 一方,完結型の寄せの問題を作る時,私の作った簡単な問題と詰め碁や寄せの本に書いてある問題を参考にして組み合わせて作るようになった.そうなると回りの石の関係で正解が変わるだけでなく,本では劫が不正解の問題を応用しても劫にしないと勝てない時や部分的に生きるより捨て石にしないと負ける時が多いことに驚いている.このように,9路盤や13路盤で作る完結型の寄せの問題は,全体の勝ち負けのために部分的な損を容認するなどの判断力を養える点で部分的な寄せの問題より優れている.

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ギリギリの手

 対等な棋力のもの同士だとギリギリの手を打っても問題はない.なぜならプロとアマチュアの共通点の一つは,どちらが有利かの判断を比較的正確にできるからである.打ち込みなど読み,判断を要する手は,自分に有利な石数や配置であれば強気に,不利であれば控えめに打つと言うのが原則である.どちらが有利かの判断は相手の立場にも立ってどちらの石を持ちたいかを考えると簡単にできるので,プロ同士でも低段者のアマチュア同士でも同じようにできる世界である.一方,違いはギリギリの手を打った結果として,アマチュアではどちらかが死ぬことが多いのに対し,プロなど高段者では,両方とも生きになったり,劫になったりすることが多く,どちらかが死ぬ時でも早めに判断がなされ,振り代わり,あるいは捨て石になり,それでも損をしていないか,逆に死んだ方が得なことも多いということである.

 ギリギリの手を打とうとしないと囲碁は面白くない.まずは,ギリギリの手を考える.この結果,対等な棋力の者同士であればいい加減な分かれになる.しかし,低段者が高段者に対し,ギリギリの手を打つとその後の手を間違って殺されることが多い.そこで,用心深い人はどちらが有利かの判断ができても,控えめな手を打つことになる.控えめな手を打つことにより,殺されなくなったり,厚みになったりして上手に対しても勝率が上がると誰に対してもギリギリの手を敢えて打たなくなる.初心者はいつも上手と打っているので,誰でも用心深くなるのは当然である.一方,ギリギリを超えて少々無理な手を打っても相手が失敗して死んだり,自分の死んだ石を捨て石にしたりして大勝ちできる時もあり,殺す喜び,大勝ちをする喜びを覚えて,できるだけギリギリの手を打とうとし続ける人もいる.

 最近,囲碁将棋チャンネルで解説付きの古碁の棋譜を見ていて思ったことがある.それは,中盤以降,古碁では「相手が間違えないことを期待」してギリギリの手を打っているということである.昔と異なって今はコミがあるので白だけでなく黒も布石からギリギリの手を打たなければならず,従って定石は現在の方が進んでいるようである.ただし,現在のプロの碁と比較して古碁では,中盤以降にいつもギリギリの手を打っている.ギリギリの手と言っても,考慮時間が十分にあって高段者同士が真剣に考えた上での手で,相手も間違えないで打ってくることを覚悟,あるいは期待して,打った手なので無理な手でもない.たとえば手を抜かないだろうと思って打った手に対し,手抜きをして他を打った時の判断で,手抜きをして後手で生きても締め付けができる手筋を準備してあり,手抜きをして打った手の大きさと締め付けの大きさの判断をお互い先の先まで読んで打っていることに驚いた.

 選択肢の多い局面で,経験や知識から選ばれる手,打つ場所は棋力や好みによって異なって来るが,プロ級の高段者になるとそれほど変わらないので,形勢から強気に打つか,控えめに打つかの判断が重要になってくる.ただし,棋力の程度は別にして,同じ棋力を持つ自分を相手の立場に置き,石数や石の配置でどちらの石を持ちたいかという判断をすることができるようになれば形勢判断の能力はプロもアマチュアもあまり変わらない程度だと思う.このように,囲碁の場合どちらが有利かの判断は比較的容易なので,過去の棋士でも現在のプロでも最初の着想は似ているのかも知れない.

 違うとしたら先の先,裏の裏まで読みが入るかどうかである.言い換えれば,囲碁の場合,差し当たりの手を考えればよい時と遠大な構想ができる時とがあって,それに早く気付き,十分な時間をかけて大きな構想の元に打った手かどうかである.お互いに最善の手を十分検討する時間と能力があり,最善の手が見えているのであれば,お互いに思っていたように局面は進むはずであるが,お互いに時間がないか,一方に能力がないと最善の手を打ってくれない.いくらプロ同士でも時間がなかったり,それだけの能力がなかったりすることの方が多いと思われるので,局面はその度に変わり,相手の思惑を読み尽くして構想を練り直さないといけない.古典として残っている棋譜は,現代の棋譜より最善の手が打たれ,お互いに思っていたように局面が進行していたものと思う.時間的な余裕が今の対局にはないし,あったとしても最後まで読むことに耐えきれるかどうかも大きな問題である.過去の棋士は時間をかけてギリギリの手を探しているのに対し,現代のプロ棋士は読みの時間が制限されているので時間つなぎの無駄な手だけでなく,無理をしない手,妥協の手を打たなければならないことに慣れていることが大きな違いである.現在のトッププロと低段者のプロとの違いも,「相手が間違えないことを期待」して制限時間内でどこまで妥協せずによりよい手,ギリギリの手,を探せるかどうかにあると思うようになって来た.国際棋戦で日本の棋士が勝てないのも普段お互いに妥協の手を打つことに慣れてしまったからで,日本より厳しいギリギリの手を探さないと国内でも勝てない中国や韓国の棋士に負けるのは当たり前かも知れない.時間制限のある時には,どちらかというと考えに考えてそれなりの結論を出すことに長けた人より,記憶力がよくて定石や中盤,寄せの形をたくさん覚えている人,手筋に明るい人の方が有利と思うかも知れない.しかし,無理をせずに打ち相手が無理を打って来た時に反撃するスタイルの囲碁でそれなりの勝率を残せるのは,低段者のプロまでかも知れない.一手一手に何時間も何日も考えることを幸せと思う人が近代の碁で強いとは限らないが,よい棋譜を残したいと思うのであればそういう対局もあってよい.

 高段者が初級者に教える時無理な手を打つなと諌めることが多い.無理な手はダメであるが無理な手かどうかが分からないから無理な手を打つのである.ギリギリの手と無理な手は異なるが,囲碁は変化が多いのでその区別は困難である.特に,それらの区別の付かない初級者に取ってギリギリの手と無理な手は同じなので,無理な手を打つなと指導することは初級者に取ってギリギリの手を打つなと言っているようなものである.無理な手を打たないようにするためには失敗したり勉強したりすればよいが,ギリギリの手を求める気持ちだけは無くさない方がよい.少し控えた方が勝率は上がるかも知れないが,殺されることを怖がって打つより最善の手を求める探求者の気持ちをプロだけでなくアマチュアも持っていてもいいと思う.

 プロなど高段者によるお互いにギリギリの手では最終的に「両方生き」や「劫」,「厚みと地」,「地合い」など「一方だけが有利ではない別れ」になるはずである.と言うことは,中盤以降でプロやアマチュアがさらに強くなるためには,ギリギリの手を打つためにはまず死活に明るくならなければならない.そのため死活の問題は当然として,劫になる問題など「白黒の全ての手に必然性のある問題」を解いたり,作ったりする訓練が必要である.

 プロでは,地に辛く3線に打つ人が多い.プロであっても人間のすることには必ず間違いがあるので,まずは無難に地を稼ぎ,相手に緩着があればそれを咎めることが勝率アップに繋がるからだろう.しかし,大模様の武宮九段や三連星にこだわって打っていた頃の加藤九段の勝率が悪かった訳ではない.また,李世石九段や山下九段のように無理‘気味’の手を打つプロがトップに君臨していることを考えると本当に強くなるためには妥協を許さない気持ちが重要と思う.無難な手は,ある意味妥協の手であるのに対し,ギリギリの無理‘気味’の手は,時に無理な手になる確率が高いし,無理な手ではなかったとしてもその後の対応で間違いを犯しやすい.また,そんな手を考え続けるのは疲れるし,時間がなかったりもする.どちらを選ぶかは勝手だが,私は後者にこだわりたい.

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相談碁とネット碁

 囲碁の別名には,「烏鷺(うろ)の戦い」や「手談」など数多くあるが,仙人の碁を見ていると斧の柄が腐ったという逸話から「斧の柄(おののえ)」とも言う.これは,長考をしだすと他のボードゲーム以上に奥が深いので,中々結論が出ず,1手を打つのに何日もかかったり,1局を打つのに何ヶ月もかかったりすることもあったことによる.ただ,一般には5分や10分の長考をするだけで相手に嫌われることが多い.また,誰が考えても,勝負事で横から口出しをすることは御法度である.これに反対の碁が江戸時代には打たれ,現代でもプロの棋士たちの勉強のための棋譜として輝き続けている.相談碁である.江戸時代の御城碁など時間無制限の頃には何日も何十日もかけて,複数の棋士で合議して1局の碁を完成させ,後世に残る棋譜を残していた.

 プロの棋士は,棋譜を汚したくない,後世に残る棋譜を残したいと考えているそうである.しかし,NHK杯テレビ囲碁トーナメントなど時間制の対局を見ていると時間繋ぎに不要不急の手をたくさん打っている.劫材に使えるような手を考慮時間が欲しいため打っているのは明らかに棋譜を汚していることになる.後の人が,棋譜だけを見た時,なぜそこに今打たないといけないのかの必要性を見いだせない手の中に時間繋ぎの要素が隠されているのである.時間稼ぎの手は,本来なら劫材として残しておくべきものである.また,時間制限のため読みを十分に入れることのできなかった手もお互いに多いはずである.そんな棋譜が後世に残る棋譜となり得るはずがない.さらに,後世に残る棋譜を残したいと思うのであれば,時間の制限だけでなく,一人で考えるより数人で相談して打った方がより良い棋譜が残せると言う江戸時代に先人が考えたことに気付くべきである.さらに言えば,頭の中だけで考えるより実際に碁盤に並べて検討しながら考えるとよりすばらしい手が考え出されてくるのも当たり前である.低段の棋士が何十人いても駄目であるが,数人の高段の棋士が命をかけたこのような環境の元で相談すれば名人や本因坊と言われたチームのリーダーでも気付かなかった先の先を読んだ奥の深い構想豊かな手が考えられたことも多かったに違いない.もちろん,囲碁の基本は2名であることは当然で,着手は多数決でなく意見を聞いた上チームのリーダーが全責任を持って行わなければならないので,チームリーダーになるための競争もすごかったであろうし,チームリーダーだけが後世に名を残すことも納得済みであったものと想像する.そのために,才能の溢れる棋士たちがいくつかのグループを作って毎日ひたすら研鑽を重ねていたことであろう.

 秀策や瀬越憲作などが才能のある若者が地方から出て来て,初めて長考する高段者と対局したときの気持ちを考えてみた.「考えるな,形で打て」と教えられて来たかどうかは知らないが,才能のある若者であればおそらく早見え,早打ちであったろうし,少なくとも一手に何時間も考えると言う碁打ちとの対局はなかったであろう.そういう若者は,入門時,高段者との対局での勝ち負け以上に,中央の専門(プロ)の棋士の囲碁に対する姿勢に何かを感じ,本因坊家などに入門後は棋譜や詰め碁の研究,兄弟子との対局などで囲碁の深遠さを体得し,勉強,研究に精進したに違いない.そして,よりよい棋譜を作るため,一手一手に時間をかける価値,考える楽しみを見出したに違いない.

 後世に残る棋譜を残すためには同等に優れた相手が必要である.相談碁では相手も深遠な手を打ってくることだけを期待!しながらそれ以上の手を発見しようとするところに喜びを感じていたと思う.喜びを感じると言っても単なる遊びでは駄目で,本当に真剣勝負の場でなければ相談碁であっても名局ができるはずがない.相談碁もお互いに時間無制限と言う点で平等で,相談しているのもお互いに納得の上である.

 私には,時間に追われる碁は向かない.プロだから長考をしても許せる,アマチュアの長考はダメだ,というのも本当はおかしい.アマチュアはいくら考えてもそんなによい手を打つ訳がないというのであろうか.私は,相手がどんな手で答えてくれるか楽しみでいろんな手を試みる.大部分は失敗で,強い対戦相手になればなるほどその欠点を突いてくるので,そのために負けることも多い.時間制限のある碁を打ちたくないというのは私なりによりよい手を探したいからである.

 インターネット碁には時間に追われる対局場と時間無制限の対局場とがある.インターネットで囲碁が始まって間もない1996年頃30局くらい時間制限のあるインターネット上の対局場で囲碁を打ったことがある.チャットを楽しむ相手はいいのだけど,時間切れ負けが多く,時間に追われて面白くなかったので,1,2年で止めてしまった.一方,時間無制限の対局場とは,メール碁である.郵便碁やメール碁は,時間無制限だし,碁盤で並べて十二分に検討ができるなど相談碁に似た所がある.その頃,出会ったのが,MuramasA さんのホームページであった. Play-GO-Land で,相手の素晴らしい手をわくわくしながら待って打ち,十分考えて答え,(私たちのレベルなりに)相手にミスが無かったら(自分がそれ以上の手を打てなかったことにちょっと後悔しても)気持ちのいい負け方をしたと諦める.待つ楽しみもいいもので,勝っても負けてもそんな気持ちの良い碁を打たせてもらった.アマチュアには相談碁をする機会はないが,代わりにメール碁は楽しめる.

 時間制限のある囲碁を否定している訳ではない.逆に昼休みにわいわいがやがやと早碁を打つ風景が無くなったことを寂しく思っているくらいである.また,ネット碁を批判しているわけでもない.「わざわざ出かけなくても時間のあるとき気楽に囲碁が打てる」,「日本の田舎にいて韓国,中国,ヨーロッパの方たちとも囲碁が打てる」,「普段打てない高段者の方とも囲碁が打てることがある」などネット碁にはいいところがたくさんある.若い人の中にインターネットでしか囲碁を打たない人,碁盤で打ったことのない人が増えてきているとも聞く.その点は別の意味でおかしいとは思うが,インターネットを通して囲碁がますます普及して欲しいと思っているくらいである.

 最近は,プロでも考慮時間が短くなり,本人および他のプロによる局後の検討をテレビで聞いていると時間繋ぎの手だけではなく問題手が複数あるような棋譜しか残せていない.今の時代に後世に残る棋譜ができるのかと疑問に思うし,時間無制限の相談碁をしてでも残したいと思う棋士はいないのかとも思う.相手が1手を打つとその後のことを数人の高段の棋士でいろいろと碁盤の上で並べてみて最善と思われる手を考えて打つ.江戸時代の名局で,読みが重要な中盤以降になると相手の裏の裏を読んだケアレスミスのない手が打たれたのは相談碁であったことを考えると納得できる.これを私はずるいとは思わない.それどころか,後世に残る棋譜を作るためには,囲碁を強くするためには,一番の方法ではないかと思う.

 囲碁は遊びではあるが,プロにとってもアマチュアにとっても真剣な遊びあるいは勝負で,場によって真剣さが異なる.プロにとって対局場は木刀ではなく真剣での勝負の場であるべきで,お金を稼ぐだけの場であれば真剣さはそれなりにあっても精神的には賭け碁と大差ない.命を賭けた正に真剣勝負の場,修業の場を求める気持ちが大切で,より強い人との対局を求める修行者でなければならない.囲碁では自分より強い人との対局を求める人しか強くなれないことを考えるとプロは上には上がいることを悟っているはずである.また,それ以上強くなることを諦めて,逆に天狗になって,真剣勝負の場を求めることを放棄した途端それ以上強くなれないことを考えたら,謙虚な人格者しか本当に強い棋士にはなれないような気がする.ただし,全ての碁が真剣な勝負の場である必要もなく,指導碁などのようにプロにとっても真剣さの「低い」遊びの場があってもよい.後世の人が勉強したくなるすばらしい棋譜を残すためには,場が重要で,二つの高段者のグループが本当に真剣に相談碁を行う場があれば現代の棋士でもできるものと思う.

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職場での囲碁

 昔の職場では,お昼休みや仕事後に囲碁や将棋をしている風景が見られた.それが囲碁や将棋人口が減少し,職場の規律が厳しくなり,あるいは何となく職場で遊ぶことが憚(はばか)れるようになっている.これは,休み時間でも電気代がかかり,ネット碁ではコンピュータの減価償却費など職場の予算を使っていると言う発想かも知れない.しかし,電気代などは,遊んでいなくても使うし,職場があまりに世知辛くなってゆとりが無くなると,人間関係などもぎくしゃく「しやすく」なっているという現実である.昼休みに将棋や囲碁を打つだけで,それが解消できるのだから職場の厚生設備としては安いものである.仕事の中にも,職場の中にも,愉快さが必要である.仕事は愉快なものでなくても良いと言う人も増えて来ていると思う.しかし,愉快さがあれば,仕事がはかどるはずで,職員の退職防止,医療費の削減につながる可能性がある.

 それでも休み時間で,かつ他の人から見られないのであれば,代わりにコンピュータを用いたトランプゲームを気分転換にするくらいは上司も多めに見ていた.しかし,それを後ろから見ていると私には異常に思えた.というのは,このようなコンピュータ一ゲームは,一人ひとりがコンピュータに向かって遊んでいるだけで,人間的なコミュニケーションがなく,職場にとって人間的ないい影響はないと思っていたからである.最近,子供達が集まっても会話をせず,それぞれがコンピュータに向かって遊ぶという不思議な光景と似ているように思えた.子供の時から,コンピュータ「で」遊ぶのではなく,コンピュータ「と」遊ぶ子供が増え,人とのコミュニケーションに慣れていない,コミュニケーションをしきらない若者が増えているような気がしていたからでもある.若い時からメールやチャット,掲示板を使ってコミュニケーションを取り,友達との直接の会話が少なかった若者には,これまでの人間の性格にない共通の性格が生まれ,オタクと言われているのかも知れない.

 さらに,世の中は世知辛くなって,職場でのそのような景色も,イントラネットによる全てのコンピュータの利用の把握,管理,すなわち,情報の漏洩を防ぐため情報の流れの管理,無許可の情報の保存の禁止,コンピュータの利用法の把握がなされるようになって来た.こうなると,ゲームなどしごとに必要でない全てのソフトのインストールが制限され,職場でのコンピュータに向かっての遊びは無くなりつつある.これで休み時間がようやく正常になるのかと思っていたら多くの場合,同僚,仲間同士の会話は復活せず,静かで楽しくない昼休みが残り,人間関係が希薄で仕事のためだけの職場,管理社会が生まれている.休み時間に何をしてもいいのであれば囲碁や将棋は,仲間同士のそれなりのコミュニケーションと仲間意識を育むはずである.

 囲碁を打つ暇があったら仕事をしろと言うのも変である.考えることが好きになるだとか,大局観が養えるなどのような囲碁の効用とまではいかなくても,囲碁は趣味として優れ,また一般に趣味を持つことがいいことであることは比較的広く認められている.趣味を持っているから本業がおろそかになるということもそれほど多くはなく,趣味は仕事にいい影響を与えることも多い.これまで日本には,囲碁を嗜(たしな)んでいた偉人が多い.このことを考えたら,囲碁で遊んでいるくらいだったらもっと仕事をしろ,休み時間にはじっと休んでいろ,とは,言えないはずである.民主党の菅副総理や小沢幹事長などは囲碁が好きで,しかもかなり強いようである.私も忙しい中で詰め碁を作ったりして囲碁を楽しんでいるので想像がつくが,強くなるためにはそれなりの時間をかけないといけないので,彼らも時間のある時には政権について忙しい中でも詰め碁の本を読んでいるような気がする.ただし,遊んでばかりいるのではなく,激職をこなしており,人以上に仕事もしていることは間違いない.どんなに忙しい職であっても息抜きの時間を作れることはいいことで,それが仕事にもいい影響を与える.価値観の問題で,飲みに行く時間,ゴルフに行く時間を囲碁に回せばいいだけのことで,寝るとき,移動のときなど詰め碁は気軽に楽しめる.仕事を十二分にして,かつ囲碁も楽しむのが人生の理想である.さらに言えば,仕事が趣味,天職と思うようになれば人生は楽しいはずである.しかし,たとえ仕事が趣味にならなくても,まずは食べて行くため,家族を養うための手段であることをベースにして,使命感,やりがいを感じさせるような指導者(社長や上司)の存在,職場のムードが大切である.また,私のように意思の弱い者にとって,職場での趣味は仕事の能率に逆効果の時が多いことも否定できない.ただし,それらを差し引いても職場での趣味の効果も評価すべきである.

 私の職場にも人を管理するのが好きで,学生まで教育ではなく管理していた人がいた.碁敵(ごかたき)の私の同僚に,休み時間でも職場で囲碁を打つのは問題だと間接的に圧力をかけたそうである.そういう上司が増えると職場の人間関係は悪くなる.以前は,上司も囲碁を打つことが多かったので,回りの人も寛大に見ていてくれたものである.職場での囲碁は,けじめをつけて行えば気分転換だけでなく,同僚間の親睦などにもなる.碁敵とは良きライバルのことで,これほど仲のいいものはない.職場は楽しいはずがないと言う人も増えて来たと思うし,楽しいはずのない職場も増えて来たと思う.しかし,辛い仕事の中にも娯楽があればストレスで職場放棄をする人を減らし,精神病などの軽減にもなり,仕事の定着率も高まり,業績も上がるものと思う.職場内のあるいは職場対抗の,囲碁大会,将棋大会,麻雀大会,ゴルフ大会,ボーリング大会,忘年会,新年会なども無駄のように見えて無駄ではない.職場での囲碁の復活は,囲碁人口を増やす方法の一つで,日本の社会を楽しく,かつ競争力のあるものにする.仕事に使命感がなく,職場が楽しくなかったら人生の楽しさは半減する.日本の社会全体を見ても,もう一度,職場での娯楽の存在意義を考え直すべきである.

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国際棋戦

 囲碁の国際戦で日本の低迷が続いている.低迷どころか,トップ同士でも、層の厚さでも,さらにこれから将来の目安となる若手でも全くかなわないのではないかと思わせるような状態が続いている.2009年12月に行われた各国8名の若手棋士による第10回国際新鋭対抗戦で,日本は中国,韓国だけでなく台湾にも破れ,初めて最下位となった.張栩元名人を破った20歳の井山新名人でも3戦全敗で,他の国は13歳から20歳くらいの本当に若手が多かったのに対し,日本は20歳が最も若かったとなると深刻で,しばらくの間その差は広がるものと思われる.

 さらに,2010年1月行われた第2回BCカード杯国際予選には296人の棋士が参加し,韓国30,中国18,韓国アマ5が本戦出場権を獲得した.日本は23人が出場して本戦出場者は2年連続0人だった.しかも,日本のプロは韓国のアマ棋士に真剣勝負の場で5戦全敗したと言うから困ったものである.ただし,この人たちを日本で悪く言わなかったことは救いだが,恥をかくからと言って参加者が減ることを心配している.また,そのアマ棋士の一人は,本戦で李昌鎬九段も破ったと言うのであるから韓国の現在のアマチュアトップがすごいと言うだけで日本のプロ棋士をそれほど攻められないのかも知れない.日本からの出場者は,大矢九段を筆頭に勇気を持った人たちであるが,日本にももっとランクの上の人はたくさんいる.彼らよりランクの上の方がもっと参加しないのは残念であるし,情けない.日本も世界戦で勝たないといけないと日本棋院の理事長なども言いながら,参加して真剣勝負で鍛える場を放棄し続けているように思える.世界ではより強くなろうと死闘を繰り広げているのに,逃げてばかりいては,差がますます広がるばかりである.

 このように日本のプロ棋士が世界戦で勝てなくなってしまったという現状は現状で,客観的に受け入れざるを得ない.一方、ほんの10数年ほど前までの過去には,日本が韓国や中国に勝(まさ)っていたことも客観的な事実であると思う.しかし,その客観的と思う事実まで,最近のあまりに情けない国際棋戦の結果を見ていると,ひいき目に見るべき私達日本人でさえ過去の日本の棋士たちの実力を疑いの目で見てしまいそうになる.

 また,詰め碁問題を作るとき,プロの打った碁を参考に見る時がある.以前は,新聞の囲碁欄に載っている日本の棋士たちの対局しか見る機会がなく,中国や韓国の棋士のことは全く知らなかったが,最近では,ホームページで国内外の多くの対局を見ることができる.もちろん、贔屓(ひいき)の日本の棋士の対局も見るが,最近は,中国や韓国の棋士と日本の棋士との国際対局,日本の棋士が関係しない中国や韓国の棋士間の対局などを見ることが増えた.

 このように国際棋戦で日本があまりにも弱いと,山下対張栩戦など国内棋戦もむなしくなる.ただし,今,弱いからと言って諦めていたらますます差が開く.民族主義者ではないのだが,切磋琢磨するから,勝とうとするから囲碁は面白い.日本の囲碁を強くするためには,棋士だけでなく,国民全体に,特に子供の時から,誰にも負けたくないと言う精神の強さを鍛えることと,囲碁人口を増やすことが大切だと思う.昔の日本の棋士の方々の名誉のためにも,これからの日本の囲碁界のためにも,日本棋院や関西棋院は対策を立て,現役の棋士の方達は国際棋戦で頑張ってもらいたい.

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負け犬根性

 好局を打つためには場が大切だと他の所にも書いたが,あるプロ棋士によると1局打てば2kgも体重が減る世界がプロの世界だそうである.それほど真剣に対局しているプロ棋士が現代の日本にたくさんいるとは思えない.真剣勝負と妥協を余儀なくされる時間制限は相容れないように思うからである.また,負ける喜びのことも書いたが,プロは負ける喜びを覚えては強くなれない.負けるとどうしようもなく悔しく,何としても勝ちたいという強い気持ちを無くしたらプロとしては失格で,自分の限界を認めたらプロとして強くなれないはずである.武蔵丸との優勝決定戦の時,骨折をこらえて取り組んだ貴乃花の形相を思い出す.すばらしい相手との命を削るような真剣勝負の場でさらに強くなれる機会が与えられていることを感謝し,より強い相手と切磋琢磨して納得の行く棋譜が残せるかも知れないという喜びを感じながらも相手が神であっても負けないという強い意思を持って命がけで対局すべきである.

 逆に,負け犬根性という言葉がある.私の趣味で飼っているニワトリの行動を見ると, 順位と言うものがあって一度順位が下になるとそれに甘んじる性質を動物は持っており,その性質によって無駄な争いを回避している.横綱でも名人でもニホンザルの集団でもニワトリでもトップに立ったものと2番目以下とでは根性が違う.順位が一番上のニワトリだけは,その順位を維持するためのモチベーションが非常に高く,いつも下のものを威嚇するなど努力をしているのに対し,順位の低いニワトリは順位に甘んじ,諦めに似た行動しかしない.ただし,伸び盛りの若者は異なる.例え,順位が下にあっても自分はまだまだ伸びると言う確信を持っている時に負け犬根性はない.目に見える体の発達だけでなく,頭の発達も自覚できるからで,このままのペースで伸びればその内に追い越せると思い,努力できるからである.しかし,若くて,伸び盛りであっても同じ世代のものに全く歯が立たず,追い越せないと思えば,伸びが鈍化し,トップでモチベーションの高いものとますます差がついて行く.自分はできるのだと言う過信に近い自信とすばらしいライバルがいれば,若者は順位が下位にあっても負け犬根性を持つことなく成長する.

 野生猿のボスでもトップに立ったらその時からすぐに自分のためではなく群れ全体のために行動するようになる.群れの中で弱いものに優しく,責任感や判断力がある一方,のし上がってくるものには容赦しない.また,トップに立ったものだけが持つ性質として品格がある.ボスザルは,シッポを上げているだけでなく,体格,毛のつや,態度など風格を見ても他のサルとすぐ区別が付く.相撲で横綱の品格がよく話題になるが,大関の品格や相撲取りの品格はあまり問題にならない.品格は教えることも大事だが,一般にはその立場から教えられなくても付いてくるもののようである.戦う前からのし上がってくるものを震え上がらせる威厳だけでなく,自分のことより全体のことを考える思考,仲間に対する思いやり,優しさ,余裕のある立ち居振る舞い,などである.

 しかし,サルでもニワトリでもできること,集団生活をする高等動物が持つ特性,がヒトにできなくなっている.昔は出世して豊かになることを親も本人も夢見ていた.しかし,今は大きな夢を持つ若者が少なくなっている.それは,子供の頃から親や回りの社会を見て実際に成功するのは一握りの人になることや,努力し苦労するより楽な人生があるのではないかという錯覚を持ってしまったことにある.一生懸命努力しても中々思ったような人生は得られないが,一生懸命努力しないともっと面白くない人生しか待っていないことに子供達だけでなく,最近の親は気付かない.社長などトップになれば,収入が増えるだけでなく,家族や回りの人に評価(尊敬)されるなど大きなメリットがある.昔なら子供を育てるために何とかしないといけない,と苦労している自分の親を感謝しながら見る一方,成功して豊かな家庭を築いている親と比較して,子供達は無意識の内に夢,努力目標を感じたものである.しかし,現代日本の多くの家庭では中流階級に満足している親を見ながら日本の社会でハングリー精神を養うことは困難である.現代の若者社会の中で,トップに立ちたいと思わないことは,負け犬根性という悪いイメージの精神状態ではなく,若者の普通の精神構造となっている.

 また,民主主義の思想は,強いリーダー,独裁者,が生まれることを拒絶しているだけでなく,私達が強いリーダーになることを精神的に邪魔している.ヒトは競争に勝ち抜いてトップになりたいという気持ちより,そんな努力をしてもどうせ自分の能力には限度があるという諦めの心境が勝つための努力を邪魔しているものと思う.プロ棋士には負け犬根性を獲得してもらいたくないものである.

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定石

 元院生のあてこみさんの経験で,「2ヶ月ほど碁に全く触れないでいた時期があり,その後また打ち始めたときに1番力が落ちていたものは,定石手順で,500ほど覚えていたものが,たった2ヶ月で8割以上忘れてしまった」という.私の場合,記憶力がそれほどよくない上,2ヶ月以上打たないことはよくあるので定石を覚えきれないのは当然である.私も囲碁で定石を勉強しないと強くなれないことはよく知っている.しかし,私は定石をまともに勉強したことがないし,覚える能力もないのだが,あえて覚えないようにもしている.なぜなら人の碁を打ちたくないからである.失敗しながら自分なりの打ち方を作ることに私としてはこだわっているし,それがたまたま定石と同じであればすばらしいと思っている.定石を覚えすぎると碁は強くなっても面白くなくなるのではないか,囲碁では習い始めたときに形を決められるとなかなかその形から抜け出せないのではないか,と勝手に思っているからである.とは言いながら,対局の中でいつの間にか私も相手の手の中からいくつかの簡単な定石を学んでいるようである.

 囲碁は芸事の一つとも考えられている.一般に,芸事は,まず習って,完全に覚えて,その後それを越えて,初めて一流と呼ばれるそうである.芸事のレベルが高い時,奥が深い時,習得するのに時間を要するので,若い時にそれを始めて一生を捧げないと新しいものは作れないし,現代の天才と言われる人たちが,一生をかけても過去の天才のレベルに達しないことも多いようである.人間の才能の限界から考えて,囲碁もそのレベルに近づいて来ているような気がする.例えばコンピュータと比較して人間の方が勝る分野とコンピュータの方が勝る分野があるが,進化するコンピュータに対し,人間の能力には個人差があるにしても限界がある.また,どんな天才もいつかは亡くなるし,新しく生まれてくる子供たちは一から勉強しなければならず,20歳をすぎると覚える事と同じくらい忘れる事が多くなる.江戸時代のように一生を芸事に捧げることのできない現代の世の中では,200年前の天才たちを超える事は極めて困難なのかも知れない.

 1987年アメリカのノースカロライナ州に天才と言われていた中国系の少年がいた.その子は,私の上の娘と同じ11歳だったが,すでにノースカロライナ大学の大学院で勉強しており,その弟は私の下の娘と同級だったので,それなりの付き合いがあった.その天才少年と私が会ったのは私たちが日本に帰国途中で寄ったサンフランシスコの海岸で,こんな所で再会するとはと驚いたものであった.娘たちと一緒に砂遊びをしていたその無邪気な少年を次に見たのは,1988年1月2日のNHKの特別番組であった.世界の天才の紹介でアインシュタインなどの紹介が1時間,その少年の紹介が残りの1時間と言う扱い方をされていたのには驚いた.チャペルヒルというアメリカの小さな町の天才にすぎないのだろうと思っていた少年だったので強い関心で見た.その少年も他の天才と言われる人々と同様,数学,音楽を中心にずば抜けた才能を持っているということであった.それでは,数学の才能とは何だろうと考えると,その少年が大学院で勉強しているように,まずは過去の学問を学ぶ能力にあると思った.学ぶためのモチベーションは,他の人ができない問題でも簡単に解くことができるという生まれ持った理解力,発想力,記憶力などの才能に起因するが,そのモチベーションが,学ぶことに,考えることに,強い興味を持たせる.次に,彼らは,学ぶことが無くなると,出された問題を解くだけでなく,自分で問題を考え出すようになる.そこからが天才と言われる人たちの業績で,彼が現在どういう業績を上げているのかは分からないが,若くして伸びた力は何かを生み出しているに違いない.

 私にはもう一人天才だなあと思う友達がいた.40年ほど前,東京の予備校にいた事がある.当時,東大にも1,500人以上の合格者を出していたその予備校の中でも,また東大の医学部にはいった友達がたくさんいた中でもK君は私から見ると異才を放っていた.ただし,天才には思えない目立たない風貌をしていたので,気付いていたのは私の他何人いたのか分からない.下総中山にある4人部屋の寮にいて部屋が近く,私とは特に仲が良かった.成績で言えば,K君は一応理3(東大医学部)の確実圏にはいたが同じ予備校にはまだ上に70人以上いる程度で,彼の能力からするともっと勉強するとすごいだろうと思っていた.彼の机の上は荷物で一杯で,たまにその一部を払いのけて勉強することはあっても,普段は汚い2段ベッドの中でゴロゴロしていたからである.しかし,数学は特にできて,数学ゼミナールという雑誌の難問で有名な懸賞問題の常連だった.そのK君は,囲碁を高校時代に50局ほど打った事がある程度と言いながら,それなりに自信を持っていた寮長を,将棋もそれほど打った事がないといいながら3段の友達を,相手にして悔しい思いをさせていた.私にとって初めて世の中に天才はいるものだなあと思わせた友達であった.

 さて,囲碁は,誰でも楽しむ事はできるし,囲碁を楽しむのに才能は関係ない.また,誰でもある程度強くなる事はでき,気付かないうちに囲碁から何かを学ぶ事もできる.しかし,囲碁を進化させようと思えば過去の天才を凌ぐ才能と努力とライバルが必要であろう.定石は世界の天才棋士たちによってまだまだ進化の途中にあると言われる.過去の天才のレベルが高ければ,さらにその上を行く定石を作り出すのは困難になる.新しい定石とは,それまでの定石を知り尽くした高段の棋士たちが意識的に手を変えてみたり,時には手順を間違えたりすることによって変化が限りなく生まれ,その中からお互いに満足できるものが新定石と言われているだけなのかも知れない.また,新手の後どう変化してもどちらか一方に有利であることが研究されれば,それ以前の手順に問題があり,そこで初めて定石が進化する.ただし,定石の選択が,好みの問題であったり,わずかな違いであったり,他の布石との関係で一方に必ずしも有利にならなかったり,するので定石は数限りなくできる訳で,「この定石が流行っている」などとNHKの解説で言っているようにそれらの多くは未だブームであって,将来,定石として残るのはその中の一部だけかも知れない.

 囲碁と数学は似ている所が多く,最先端の仕事をしようと思えばどちらも才能が必要だと改めて思うようになった.また,才能のある先人が長い年月をかけ,苦労して作った定石はすばらしいもので,それを勉強するのが強くなる一番の方法だとは知っている.それは,現代の数学が過去の多くの天才のお陰で成り立っていて,それを最初から自分で組み立てるのはどんな天才でも無理なことと似ている.囲碁や数学の進歩のためには,まず,天才が必要で,それまでの天才と言われる人たちが考えだしたことを彼らと同じように自分で考えながら学んで,その上で,新しい定石,新しい数学を生み出して行かなければならないからである.

 繰り返すが,定石はすばらしいもので,定石を勉強しないとこれ以上強くなれないことは知っている.また,覚えた手を打つと言っても,自分で定石の持つ一手一手の意味を考え,理解しなければいけないし,囲碁の場合変化が多いので布石や他の隅に置ける定石を組み合わせるだけでも十分にオリジナリティは出せる.さらに言えば,自分流で打つことは恥ずかしいことと思われることが多く.一般には自己流にそれほどこだわる必要はない.しかし,例え,私には,定石を生み出せないとしても,強くなれないとしても,私自身は,人の作った定石を何百も覚えるのは,その能力もないし,いやで,あえて定石を覚えない.一方,定石は二人で打つものであり,一人が定石を知らなかったら相手も定石が打てなくなるので定石外れを咎めることのできる高段者が相手でない時には大きな損にならない.定石を知らなかったら自分で考えていろんな変化を楽しめるし,たとえ定石を知らなかったために石が死んだとしても捨て石などに利用できる.勉強して強くなって楽しむ人,強くなることにこだわらず自己流で満足する人,さらに自己流で強くなることにこだわる人,など囲碁には色んな楽しみ方がある.私は,下手でもよい,縛られない自由な発想でオリジナルな碁を打ちたい,と思っている.

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ハメ手

 ハメ手と言われる定石まがいのものがある.だまされないように勉強しておいた方がいいと言う消極的にハメ手を勉強する人だけでなくハメ手は失敗してもそれほど損はしないので一つの戦法だと前向きに考える人もいると聞く.しかし,私は勉強したこともないし,知ろうとも思わない.なぜなら相手が最善の手を打って来たら困る手だからである.それが大した損でなくても相手も知っているはずのプロ同士の対戦で実際に用いられることがないということから決してよい手でないことは間違いないものと思う.よい手ではないことを承知で用いることは相手が失敗することを期待する手に他ならない.

 囲碁では勝つために,最善と思う手,勝負どころでは相手の気付かないだろうと思う手をお互い考えてぶつかり合うから楽しい.一般に,対等な者同士で打てばそれなりにいい加減な分かれになるはずで,勝負手によって大きな差が付くのはどちらかが大きな間違いをした時であり,それを喜ぶのはハメ手の考え方と似ている.ただし,プロも含めて私たちの打っている手が最善のものばかりではないことは当然で,その私たちの打っている手は私たちのレベルなりに相手よりいい手,奥の深い手を探した結果なので,私はその手をハメ手とは思わない.また,大差がつくのは相手が間違えることを期待して打った結果ではなく,期待しないで打った結果だからであり,期待しなくても私たちは間違いを打っているからである.それでもその自分で考えた手が実戦で成功し,ハメ手にかかったように大きな差がつくとうれしく思う.この気持ちがハメ手を容認する考え方になっているのかも知れない.

 このように,私もある意味ハメ手的な思考でハメ手的な手筋を打っているのかも知れない.しかし,それは相手が最善の手を打って来たら悪くなると言う結論が出たものを承知で打っているのではなく,自分で考えた最善のものを相手がどう答えてくれるかをわくわくしながら打っている手で,ハメ手とはその点で大きく異なる.繰り返すが,それは相手が間違いをすることを期待して打っているのではなく,結論が分からないから打っているのである.もちろん,相手が間違えれば,それを強く咎め,より大きな利益を上げようと考えるのは当然である.囲碁を打つ人の多くが自分より強い人と打ちたがるのは,自分の打っている手が正しいのかどうかを確かめたい,上級者はどう対応するのかどうかを知りたいと思うからではないだろうか.私だけではなく,多くの碁打ち,特に高段者は相手が間違いを打つことを決して期待していない.

 ハメ手にかかって負けてもたかが囲碁での勝負である.プロは勝つために死にものぐるいにならなければならないが,それでも二人に一人は負けるのが囲碁の勝負である.ましてアマチュアでは勝っても負けても楽しく打てるのが一番である.ハメ手にかかって負けても何が悪かったのかを考え,次に繋げればいいだけのことで,だまされないようにわざわざ勉強する必要はないと思う.ハメ手を勉強すれば一度くらい打ってみて確認したいと思うのは人情である.勉強すれば私も打つかも知れないし,相手がハマったら面白いと思うかも知れない.しかし,勝つためにハメ手を打ち,成功して大喜びするような人とは打ちたくない.また,自分では,ハメ手を打ちたくないし,敢えて勉強しようとも思わない.

 負けても気持ちのよい対局とは,勝つために精一杯考えて,私たちの棋力なりにそれほど大きなミスはないのに相手がもっと良い手を打って来たので負けた対局である.逆に勝った対局はどれも気持ちが良かったが,特に気持ちがいいのは良い手を連発して相手を翻弄し相手に大きなミスがないのに勝った対局である.ハメ手で勝たなくとも勝つための考え方はたくさんあり,ハメ手で手筋を勉強しなくても囲碁では勉強できること,考えられることは山のようにある.

 囲碁の理想は,二人の高段者同士の布石,隅の定石,中盤の戦いにおける対等な別れに始まり,終盤および寄せでのお互いの正確な読みによるミスのない対局での勝利である.一方的な別れを求めるハメ手は囲碁の理想と逆のものである.私は私のレベルなりに囲碁の理想に憧れ,追い求めている.

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囲碁は冒険の旅

 以前,NHKの解説で結城九段が定石にない変化をよく研究しているのを聞いて感心したことがある.その結城九段の2010年6月に行われた第22回テレビ囲碁アジア選手権戦での活躍は,気持ちがよかった.決勝では負けても,結城九段の対局に対する気持ちが感じられた.まず,初心者,プロに関係なく,相手を怖がらずに冒険をすることが大事だと改めて思った.将棋やチェスではかなりの段階までそれほど多くない形,定石があって,プロ級で勝つためには従うしかない.できるだけたくさんの変化を含む勝つパターンを覚え,中盤や詰めで最終的な勝負をしなければならない.その点,囲碁は,序盤から多くの変化がある.

 逆に囲碁で定石に必要以上にこだわっていたらトッププロの世界では勝てない. 言い換えると定石にとらわれず相手より奥の深い手を考えないと世界で勝てないと思うようになった.そのためには,特に制限時間の短い近代囲碁の序盤で形勢を有利にするためには,定石をよく研究し,あらかじめ定石にない手を準備しておく必要がある.定石を知らない私が書くのもおかしいが,NHKの結城九段の準決勝と決勝の対局の棋譜に付いていた解説などを読んで見ると,結城九段の序盤から中盤の手にはすばらしいものが一杯あったように感じた.同じ選手権戦での李昌鎬九段と井山九段との対戦でも李昌鎬九段が定石を間違ったかなと思うような手を打つのにも驚いた.

 これらは相手を怖がっていたら打てない手であった.相手を怖がらないというのは,相手を下に見るというのではなく,強い相手であれば自分が考えている以上の手を打ってくるのではないかと言う期待でわくわくしながら打っていると言う意味である.囲碁では1手で局面が変わり,その後の対応を変えないといけないことが多い.相手を怖がって無難な定石や手筋ばかり打つのではなく,プロであれば冒険の旅へ出るための1手を打つ準備と勇気があるかどうかである.

 準備と書いたのはプロの話であり,アマチュアであれば思いつきでも良いと思うし,それに対しどう受けてもらえるのかを楽しめば良いと思う.一方,プロであれば,定石を覚えるだけでなく,定石の問題点,疑問点などから予め新手を研究してから踏み出すべきで,新しい局面に持ち込めれば研究して来たものの方が有利になる.その足がかりにすべきものは,NHKで結城九段が解説していたような世界戦を戦う高段者同士の真剣勝負の場で出てくる定石段階での新手で,それに対する対策から新しい定石が生まれるのではないかと思う.相手にとって初めての進行であればそれに費やす時間は研究して来たものよりかかるので時間制限の厳しい現代碁ではそれだけでも有利になるはずである.

 碁は広いのでどの対局も多かれ少なかれ,浮き沈みがあり,勝つための冒険ができる.深く読んだつもりの冒険の手が不発でもそれは次のための勉強になるし,その対局の中でも取り返しの付くことが多い. 碁の1局は冒険の旅であり,結論がでないと思われる定石や読みの分野にロマンを求める旅であると思う.

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囲碁から学ぶ人生観

 以下,囲碁を勉強することの効用について,一般に言われていることも含め私が思っていることを英語でまとめたものを日本語に翻訳した.

 囲碁は中国,朝鮮および日本で発展した古代からのボードゲームで,19路の盤と,黒および白の2種類の石だけを使用して行う世界で最も単純なゲームの1つである.昔から,頭がいいから囲碁が強いのか,囲碁を打つと頭が良くなるのかと言う議論がなされ,囲碁が強くても学校の成績は悪かった,学校の成績は良かったとしても囲碁は弱い,ということもよく話題になる.しかし,学校の成績とは別にして囲碁は頭の訓練にはなると思う.詰め碁からは,筋道を立てて考える能力,ミスを心配することによる完全主義が鍛えられるし,より良い手を探すことによって,発想力,先を読む透察力が鍛えられ,そして何より良い手を見つける喜びが考えることを好きにしてくれる.さらに,囲碁は頭の訓練とは別に,他のゲーム以上に,囲碁を打つ人の個性が現れてくるゲームであるし,人生に例えられるゲームでもある.私は,このゲームから感性や論理性の発育だけでなく,発想の大切さ,生きていく上での何かを学ぶことができると考えている.


1) 囲碁にとっても人の生き方にとってもバランスは非常に重要である.私たちが相手の石をすべて殺そうとすれば,往々にして逆に私たちの石が殺されてしまう.囲碁では49を与えて,51を得ることが勝利への最良の道である.人との付き合いの中でも相手のことを考えず,すべてを得ようとすると逆にすべてを失いがちである.私たちは,欲張りがいけないことを囲碁から学ぶことができる.

2) 囲碁では,1つの隅を失っても,長いゲームの残りの中でそれを挽回できる.私たちは,人生の窮地の時でさえ諦めないことをゲームから学ぶことができる.勝とうと努力しないと何も得られないが,勝った碁より負けた碁から多くのことを学ぶことができる.

3) 囲碁で,私たちは,敵と戦うわけではなく,大切なパートナーと遊ぶ.私たちはお互い楽しいやり方で振る舞わなければならず,時によっては早めの投了が必要であること,人との付き合いにおいては我慢も,挫折も必要であることを学ぶことができる.

4) 囲碁は,もともと駆け引きであるが,ずるい手は不愉快に感じるときがある.強さと上手さとは異なる.勝つためには,強くなるためには,勉強し,努力しなければいけない.私たちは,囲碁から正直であることの大切さ,努力の重要性を学ぶことができる.

5) 囲碁は複雑なので,一人一人の人生がすべて異なる様に人間の歴史においても全く同じゲームはできないと考えられている.理想とする勝利のためには地や厚みのような人それぞれのやり方が許され,終局までには多くの重要な選択あるいは決定がある.私たちは,理想の,あるいは最良の人生などあり得ないが,よりよい人生を送るためには深い考察が役に立つことをゲームから 学ぶことができる.

6) 囲碁の強さは, プレーヤーの社会的立場,見た目あるいは年齢などに依存しない.実社会でも正しい,あるいは,客観的な判断は,年上の上司あるいは押しの強い人間によって必ずしもなされるとは限らない. 私たちは,囲碁の世界で正しいものは正しいことを知ることができ,独善的な決定がよくないことを学ぶことができる.

7) 私達の人生の中で夢の多くは叶わない.しかし,夢に向かって努力すれば,たとえ夢は叶わなくても何かが残る.夢はどうせ叶わないだろうと最初から諦めている若者,ちょっとした挫折で人生を投げる若者が増えているが,最初から諦めて努力をしなければその人の人生はますますつまらないものになる.囲碁の世界では,壁に当たらない人はいない.最初から壁に当たり,やる気をもたない人もいるだろうし,日本でトップになって世界戦の壁に当たる人もいるだろう.その壁を破る努力をする人だけが強くなれる.囲碁は勝ち続けることはできない.プロを目指す子供でもいつか挫折する.その中には全てにやる気を無くす子供もいると思うが,例えプロになれなくてもプロを目指した子供は高段者にはなり,周りのフォローで立ち直りさえすれば仕事などでの人間関係に役立つかも知れない.囲碁ファンは,囲碁で壁にぶつかり,挫折を知ることで逞しく,強く,そして優しくなれると思う.囲碁から学んだ教訓で,私は,どんな夢でもいいから,叶わなくてもめげずに,死ぬまで夢を持ち続けたいと思っている. 叶う夢もある!


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