古典籍資料(花・本草, 博物学,まとめ),会員のページ,総合資料,インターネット植物図鑑,アーカイブ,植物園など,関連資料,関連学会,文献検索・翻訳,デジタル資料のダウンロード方法,古文書解読講座
園芸四方山話、アサガオ(サツマイモ),ツバキとサザンカ,ラン,サクラ,ユリ,現代・草木奇品家雅見、ボタン、シャクヤク、サクラ、クレマチス、ウリ類,タチバナ,雌雄論,大蔵永常,貝原益軒,百珍,
仮名日本書紀上巻の第7巻 景行天皇 12年の条(208コマ、p268)に「海石榴 のきをとりて、椎 につくりて兵にたまふ」とあり、それを元に書かれたと考えられている『豊後国風土記』(733[天平5]年頃)に12代景行天皇の時代の「海石榴市 ・血田」の項が日本におけるツバキ、あるいは植物の最も古い記載です.「(天皇に恭順しなかった土豪である)土蜘蛛を誅たんと欲し、而詔群臣伐採海石榴樹作椎為兵(多くの臣下を集め、ツバキの木を伐って椎(槌 )を作り、兵(武器)となす。)(中略)其作椎之処曰海石榴市、亦流血之処曰血田也(その椎を作る所をツバキ市と言い、また流血の所を血田と言うなり)」と書かれています。この『豊後国風土記』の海石榴市は大分県竹田市にある城原(きばる)八幡社(長湯温泉で歯科医をしている伝統園芸研究会・会員の後藤博文さんの実家)で,元々は京都の貴族である「日野氏」の神社でした.城原神社の草創は景行天皇のご巡幸された応神2年(西暦391年)と伝えられています.しかし、景行天皇の「タラシヒコ」という称号は7世紀前半のものであるとして景行天皇の実在性には疑問も出されています。実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半かと考えられています。したがって、日本におけるヤブツバキの記録が景行天皇の実在を前提にすれば四世紀前半まで、そうでないとしても7世紀前半まで遡ることができます。「海榴」は隋代~盛唐頃の詩に登場します(江総、煬帝、宋問之、李白など)。李白(701-762)にも詩題に「海石榴」を挙げつつ、詩句では「海榴」と書いた例があります.続日本記 (797[延暦16]年)は『日本書紀』に続く勅撰史書で,渤海国の王に椿油を送ったことなど事件や歴史が簡潔に書かれています。
その内,約3分の1が植物を詠んでいるといわれ,萩の137首、梅の119首、桜の42首、椿の9首など150以上の植物が詠まれています.12卷には「紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十街尓 相兒哉誰」「紫は 仄さすものぞ 海柘榴市(つばいち)の 八十(やそ)の街(ちまた)に 逢える兒や誰れ」(紫染めには椿の灰を入れるので椿を扱う椿市の八十の街で出会った君の名は)とあるように,この頃は椿「も」扱う市と思われ,「つばきいちの」ではなく読みも簡略化して5文字の「つばいちの」になりました.因みにツバキの灰はpHが高く、熊本の赤酒では麹を作るのにツバキの灰を用いていました.
上冊に菊花(20コマ目),芍薬(31),百合(37),牡丹(カラタチバナ,38),羊躑躅(ツツジ,46),牽牛子(アサガオ,53),下冊に椿(6)があります.
『校訂 延喜式』(上巻)の 下巻の巻24の主計式のp822に「海石榴油3合」,巻30の大蔵省式のp1011に大唐皇に「海石榴油6斗」,巻36の主殿式のp1119に「海石榴油3合」が載っています.
野菜類は巻17(9冊目)で,茶が25コマにあるが?,草木部は巻20(10冊目)の31コマ目からで,菊,牡丹(32コマ目),百合(45),杜仲(58)にあり,椿は60コマ目で椿,海石榴とも和名は「豆波木 」と書いています.
ツバキの記載については上巻26に「椿市 にかへりて、落忌 などいふめれど、われはなほ精進 なり。そこよりはじめて、あるじするところゆきもやらずあり。もの被 けなどするに、手をつくしてものすめり。」とあります.
ツバキの記載については「14・市は」の段に「いちは たつの市 さとのいち つばいち.やまとにあまたある中に はせにまうずる人のかならず そこにとまるは 観音のえんの あるにやと。こころことなり おふさのいち しかまのいち あすかのいち」
ツバキの記載については,与謝野 晶子訳の22玉鬘 に「椿市 」が、34若菜(上)に「椿餅」が書かれています。しかし,『源氏物語』では花や油糧作物としてのツバキは書かれていません.ツバキは明らかに日本原産で,また奈良時代末期に書かれた『万葉集』の中に「海石榴市 」だけでなく,花としてのツバキは9首載せられたのに,16世紀まで空白の時代が続きます.
花籃図には,台北故宮博物院蔵と北京故宮博物院蔵があり,描かれているツバキの花は浙江省に由来する 浙江紅花油茶 Camellia chekiangoleosa と考えられます.
前川文夫氏の研究もありますが,細木先生を中心に17の植物画と和名らしきものから植物名を推定しました.薬師草(舩裏,オニタビラコ),法薬草(完灸草,エゴマ,シソ),車前草(オオバコ),木草伝(茯苓,ブクリョウ),阿度者崎(あとはざきー梅に寄生,ヤドリギ),草王(クサノオ),衣草(カラムシ、唐苧),仏前(ショウガ科の植物),色々(毒散味,ドクダミとは異なる),長小草(芭蕉、バショウ),狸尻巾(犬尻、?),馬頭草(イノコヅチ),甘草伝(唐蓬,カラヨモギ),阿古免草(蛭筵,ヒルムシロ),伝地草(オオイヌタデ),天衣草(マムシグサ),仏座(ホトケノザ)です.
2022年2月にイギリスの大槻葉子先生からの質問でレンゲギボウシ(Hosta fortunei (Baker) L.H.Bailey, Standard Cyclop. Hort. 1604 (1915))やトクダマ(品種‘とくだま’ H. tokudama F.Maek., J. Fac. Sci. Imp. Univ. Tokyo sect. 3, 5: 366 (1940)、オオバギボウシ H. sieboldiana (Lodd.) Engl. var. sieboldiana の系統?;語源は、「買櫝還珠 、櫝 を買いて珠 を還す」か?)が話題になりました。ギボウシの初見は、磯野直秀 (草木名初見リスト)によると1281年の 『塵袋』となっていますが、(公財)京都市都市緑化協会の佐藤正吾先生から『堤中納言物語』「はなだの女御」image 44(解説)に記載があるということで初見が1271年以前となりました。参考資料
Validation of Hosta alata (Asparagaceae) as a new species and its phylogenetic affinity(Tetsukazu Yahara et al., 2021; 181: 79–93)
5コマ目にイチハツ(一八),48コマ目にツバキ(椿、山茶)があります.
2巻の絵巻物で 絵は狩野山楽筆と伝えられており,フラワーアレンジメントとしての大胆な組み合わせはその後の椿の図譜では見られません.調査をさせていただいた椿図譜の中で最も美しいものでした.百の内51の品種、画に水戸光圀など江戸時代を表する49人の文化人たちが漢詩や和歌などで賛を寄せています.図録が1200円+送料で手に入ります.資生堂(サイバー百椿図屏風)にはその模写があります.絵だけではなく,賛を書いた49人の筆跡まで模写しています.
この他,『椿譜』は東京都立中央図書館の加賀文庫に2冊あり,混同しそうです.見に行って確認したところ加賀文庫の『椿譜』のうち『椿譜(酒中花4092)』は国立国会図書館のものと,折り帖の『椿譜(ゆり椿4091)』は京大の巻物の『百色椿(ももいろつばき)』と,文字までそっくりで写本と思われました.
ツバキが48品種含まれています.復刻本が出ており,注文するとイギリスから届きました.同名の本で著者も重賢(しげかた)によって描かれたものもあります.ただし,これは熊本の細川重賢公で,東京の永青文庫に保管されています(写真を田中が撮って持っています).国立国会図書館には,この他明治中期に加藤竹斎が描いた加藤竹斎草木写生および草木写生あるいは作者不明の加州草木写生図(昭和9年)があります.
(『地錦抄』シリーズは,その後,一括刊行されたり,剽窃本が作られたりして,少し,複雑です.『地錦抄』20冊は1733年に『地錦抄』シリーズ を一部を除き,追加したりまとめたりして出版したものです.また,国立国会図書館の『増補地錦抄』はこれと同じもので,『増補地錦抄』は「楓の項」だけです.原本と同じ名前なので混乱します.さらに,『花壇地錦抄前集』などは『地錦抄』シリーズの剽窃本(偽本)と考えられています.1813年に出版された『増補花壇大全(増補花壇大全)』も同様の出版物で,『花壇地錦抄前集』に『地錦抄附録』や他の著作を組み入れています.また,『(接木口傳)花壇叢木画譜』は『増補花壇大全』の改題本で,『花壇大全地錦抄(後集)』も剽窃本と考えられています.)
ツバキ属については同志社大学所蔵本の641(p.605) に Thea チャ,891(p.850) にTsubakki ツバキが書かれています。893ページ目に書かれた品種名をアルファベットから推定すると,Siratamma 白玉,Sjinkuri真倶梨 ,Borri 絞り,Usirasji borri 薄色(あるいは後ろ?)絞り,Itokuri いとくり,Dsjurin 重輪,Benke 弁慶,Nankin 南京,Kommatz 小松,Karai ito 唐糸,Yedo momidsji 江戸紅葉,Fidsjirimin 緋縮緬, Commakura sasanqua 鎌倉さざんか,Sokkobin 底紅,Kaisan 開山?,Kikjo 桔梗 ,Yedo dairin 江戸大輪,Saifu botan 宰府牡丹,Fino botan 緋の牡丹 日野牡丹,Meokin 妙錦?,Osjam ( magna Siamenfis ) 大寒,Kosjam ( parva Siamenfis ) 小寒,Yosttsjino donno 吉野?殿 の23品種が紹介されています.『廻国奇観』は、岸川コレクションにもあります。また、『廻国奇観』がペルシアなどを中心に書かれているのに対し、死後に出版された『日本誌』(1727年)は日本での見聞をまとめた貴重な資料です.その解説としてケンペルの「日本」の数奇な成り立ち(渡邊直樹)などがあります.
105巻81冊からなり,和漢の事象(三才:天,地,人)を天(1-6巻),人(7-54巻),地(55-105巻)の部に分けました.植物は(82卷)香木類,(83)喬木類,(84)灌木類,(85)寓木類、苞木・竹之類,(86)五果類,(87)山果類,(88)夷果類,(89)味果類,(90)瓜果類,(91)水果類,(92本)山草類上巻,(92末)山草類下巻,(93)芳草類,(94本)湿草類,(94末)湿草類,(95)毒草類,(96)蔓草類,(97)水草 藻類 苔類,(98)石草類,(99)葷草類,(100)瓜菜類,(101)芝茸類,(102)柔滑菜,(103)穀類,(104)菽豆類にあります.漢名と和名で表記され,本文は漢文で解説されています.
上巻だけで見出し数の209に類品を挙げています.ただし,キク,シャクヤク,ボタン,ユリは品種数が多いので敢えて載せていません.斑入り品が30ほどあり,斑入り嗜好がすでに始まっていました.その後(1755[宝暦5]年)書かれた『畫本野山草』(『絵本野山草,(1806[文化3]年後刷本)は,橘 保国[他](1715-92)著で,全163項目ですが、半数の82項目が『草木弄葩抄』を転写したもので,版本です.
江戸時代末期に日本に伝わり,群芳園『烏延異莫漫莫草木名』(1815),栗本丹洲編『洋名入 草木図』2帳(1818)にオランダ名と和漢名の対比表が載せられ,また飯沼慾斎の『 物印満本草図譜訳名』には524図までの読み仮名と考定和名が記され,いくつかの図は岩崎灌園の『本草図譜』(1828年),飯沼慾斎の『草木圖説』(1856~1862年)に加えられました.
この本では,植物を24綱に分類し(1738年),生物をラテン語で属名と種名で表す2命法で体系付け,植物分類学の基礎を作りました. 日本には,泰西本草名疏(1829年)で最初に紹介され,草木圖説(1856年)で日本の植物が24綱に分類されました.動物学命名法は,Systema Naturaeの第10版(1758年と1759年の2冊)にまとめられました.
この頃の蘭とはラン科植物だけではありませんでした.この本にはフジバカマなど46種の植物の記載とそのうちの30種の植物の図があります.図は写実的なスケッチでしたので和名を参考に,種を同定しました.上巻には,蘭草(フジバカマ,キク科),山蘭(ヒヨドリバナ,キク科),澤蘭(和名,白根=シロネ,シソ科)の蘭艸類3種と蘭花(雄蘭オラン=スルガラン Cym. ensifolium,ラン科),春蘭(ホクロ=シュンラン ,ラン科),風蘭(フウラン ,ラン科),仙人指甲蘭(現在の中国で仙人指甲蘭はラン科のエリデス Aerides 属の植物を表します.しかし,図からこの仙人指甲蘭はラン科のカヤラン Thrixspermum japonicum (Miq.) Rchb. f. です.),杜蘭(石斛セキコク,イワトクサ=セッコク ,ラン科),真珠蘭(茶蘭=チャラン,センリョウ科),珍珠蘭(藪蘭=ヤブラン,キジカクシ[ユリ]科),箬蘭(紫蘭=シラン ,ラン科),煙蘭(カキツバタ,アヤメ科),儷蘭(水仙=スイセン,ヒガンバナ科),紫蘭(馬連=ネジアヤメ,アヤメ科),石蘭(カンゾウ=ヒトツバ,シダ植物)の蘭花類12種の記載があります.下巻には,木蘭(アララギ=モクレン,モクレン科),玉蘭(大山蓮華=オオヤマレンゲ,モクレン科),林蘭(クチナシ,アカネ科),蘭華(レンギョウ,モクセイ科),金木蘭(ハマボウ,アオイ科)の木蘭類5種と馬蘭(紺菊=コンギク,キク科),蘭香(メハジキ,シソ科),吉祥蘭(キチジョウソウ,キジカクシ科),千葉石蘭(ヤブカンゾウ,ススキノキ[ユリ]科),芃蘭(ガガイモ,ガガイモ科),竹葉蘭(トトキ,ツリカネ=ヒルガオ?,ヒルガオ科),蟾蜍蘭(藪煙草=ヤブタバコ,キク科),野蘭(図なし),大蘭(ナデシコ,ナデシコ科),支蘭(大根草=ダイコンソウ,バラ科),蘭根(チガヤ,イネ科)の冒蘭類11種の記載と上下巻30種の植物の図があります.この他,下巻には有名未識類として葛蘭,瑞蘭,穗蘭,水晶蘭,紅蘭香,野蘭根,龍蘭,麥蘭,紅蘭花,桂蘭,幽澗蘭,道隄蘭,崇蘭,難火蘭,若木蘭の15種の記載がありました.
このように,古い時代の蘭類に共通する点は香りがあるということです.浙江工商大學の久保輝幸先生によると『楚辞』離騷に「繋秋蘭以為佩」とあるように中国南方の楚国では、歩いた後ろにかぐわしい残り香を残すため蘭を腰から下げる(佩おびる)風習がありました.それに用いたのが乾燥させたフジバカマ(佩蘭)でした.その影響で奈良平安時代の蘭はフジバカマだと思われます.ただし,漢代の「賦」などに木蘭など様々な蘭が出て来るので千年以上前から「蘭」はラン科植物もさすようになり,遅くとも宋代(10-13世紀)から蘭はラン科植物を指すようになったと言われています(蘭について(青木正兒全集八),Orchids in the life and culture of the Chinese people).このように,江戸時代の中国で蘭はラン科植物を指すように変わっていたのに『蘭品』では中国の古い資料を調べたため江戸時代でも「香りがあり中国で蘭と言われる植物」を紹介しているものと思われます.
また,金子植物苑の金子茂氏によると蘭花(雄蘭)の記載にある建蘭,玉整花,夏蘭,秋蘭,素蘭,玉魫蘭は現在和名 スルガランで,秋蘭はカンラン Cymbidium kanran,剣葉蘭,大青はホウサイラン Cym. sinennse,蕙蘭はイッケイキュウカ(一茎九華)Cym. faberi,金稜邊はキンリョウヘン Cym. floribundum と思われ,今も日本にある品種がこの頃すでに渡来していました.この頃,一茎多花はひとくくりであったと思われ,品種や栽培法など詳しく書いてあります.一茎一花のシュンラン Cym. goerinngii も中国産のものには香りがするそうです.
九州大学の矢原徹一先生によれば日本で栽培されているフジバカマ(Eupatorium japonicum = E. fortunei )の仲間には,コバノフジバカマ(ニセフジバカマ),西洋フジバカマ(E. purpureum,E. ligustrinum, E. cannabinum が混在)などがあります.西洋フジバカマの内の2種は,1980年代以後の分類で Eupatorium 属から分かれました.日本に自生する同属のヒヨドリバナ,ヨツバヒヨドリ,ヤマヒヨドリ,サワヒヨドリ E. makinoi T. Kawahara & Yahara の4種は2倍体レベルでは区別できるが,倍数体レベルでは交雑起源と思われるさまざまな中間型があり,区別が困難だそうです.サワフジバカマ E. x arakianum はサワヒヨドリとフジバカマの雑種と推定されています.
『蘭品』には間違っている箇所もありました.石蘭が2箇所に書かれています.上巻の40コマにある石蘭の記載は和名が単子葉植物の「
萱草 」ですが下巻の30コマの図には石蘭と書かれてシダ植物のヒトツバが描かれ,下巻の13コマにある石蘭の記載は和名が「一葉(ヒトツバ)」ですが下巻の35コマの図には千葉石蘭と書かれて八重のヤブカンゾウが描かれています.(1)中国語で「石蘭=石兰(簡体字)」はヒトツバのことで,「千葉」は八重を意味することもあるので記載が入れ違っている(石蘭がヒトツバ,千葉石蘭がヤブカンゾウ)とも,(2)ヒトツバの自生地は岩に1,000葉以上の葉が繁ることが多いので図が入れ違っている(千葉石蘭がヒトツバ,石蘭がヤブカンゾウ)とも,思われました.小野蘭山などたくさんの博物学者を育てた松岡玄達がこんな単純な間違いをするはずはないので版元での混乱だと解釈しました.また,間違いではないのですが,漢名と和名で名前が入れ替わり,現代まで続いているものもありました.中国語の「紫蘭」の和名は馬連すなわちアヤメ属のネジアヤメで図や記載から現代と同じでした.逆に,当時の和名「紫蘭」が図や記載から現代の植物名の「シラン」と同じであり,中国語で「箬蘭」と書かれることは知られていましたが,和名は異なっていました.
島田充房は松岡玄達の弟子で1759 [宝暦9]年に『草之一』,『草之二』を出版,兄弟弟子の小野蘭山が宝暦13[1763]年に『草部3,4巻木部1〜4巻』を追加して完成しました.明和2[1765]年および天保14 [1843]年にも8冊本として刊行されました.各冊が25品ずつ総計200点の草花・花木の図説です.『花彙』はリュドヴィク・サヴァティエにより仏語『Livres Kwa-wi』(1873年)に翻訳され,上巻の記文が出版されましたが、図版 200 点を掲載予定の第 2 巻は出版されませんでした。
1−3巻(国立国会図書館NDL#1) 水 火 土、4巻(#2) 金 玉、5−7巻(#3) 石類、8巻(#4) 山草 上、9巻(#5) 山草 下、10巻(#6) 芳草、11巻(#7) ?草 上、12巻(#8) ?草 下、13巻(#9) 毒草、14巻(#10) 葛草 上下、15−17巻(#11) 水草、石草、苔草、雑草、18巻(#12)麻、19巻(#12、12コマ)穎(麦)、20巻(#12、25コマ)穀(豆類14種)、21巻(#12、38コマ)造醸類29種、22巻(#13) 菜部、23巻(#13、28コマ)菜2、24巻 (#14)菜3(瓜類11種)、25巻(#15) 5果、26巻(#15) 山果、27巻(#16) 果3(夷果31種) 、28巻(#16、25コマ)果4(13種) 、29巻(#16、38コマ)果5(瓜類9種)、30巻(#17)木1 香木類35種、31巻(#18)木2 喬木類52種、32巻(#19)木3 灌木類51種 山茶(ツバキ36コマ)、33巻(#20)木4 寓木類12種、34巻(#20、27コマ)服器1服棉類25種、35巻(#21)虫1卵生類上23種、36巻(#21、27コマ)虫2卵生類22種、37巻(#22)虫3化生類31種、38巻(#22、35コマ)虫4?生類23種、39巻(#22、64コマ)鱗1龍類9種、40巻(#23)鱗3魚類31種、41巻(#24)介1亀甕類17種、42巻(#24、22コマ)介2蚌蛤類29種、43巻(#25)禽1水禽類23種、44巻(#25、32コマ)禽2原禽類23種、45巻(#26)禽3林禽類17種、46巻(#26、34コマ)獣1畜類28種、 47巻(#27)獣2獣類38 種、48巻(#27、62コマ)人135種
『本草綱目啓蒙』に図はありませんでした。そこで、蘭山門下の水谷豊文(1779-1833)は植物の図の入った『本草綱目記聞』を書きました。『啓蒙』増補部分が39冊、類別部分が21冊の計60冊で、武田科学振興財団
NDL#1(山草 上之上)、NDL#2(山草 上之下)、NDL#3(山草 下之上)、NDL#4(山草 下之下)、NDL#5(芳草、ボタン34)、NDL#6(芳草、ラン類62)、NDL#7(濕草、キクなど)、NDL#8(濕草、)、NDL#9(濕草、ヤブマオなど)、NDL#10(濕草、カンゾウなど)、NDL#11(濕草、ナデシコなど)、NDL#12(濕草、ハボタン4、スミレ79 など)、NDL#13(毒草、トウダイグサ科など)、NDL#14(毒草、ツリフネソウ34、ツツジ類45 など)、NDL#15(蔓草、ナワシロイチゴ24、ヒルガオ64、バラ80)、NDL#16(蔓草、八重カザグルマ47)、NDL#17(水草、ハナショウブ35)、NDL#18(石草[着生]、セッコク、ヒトツバ、紫葉ノ景天[ベンケイソウ科]52)、NDL#19(苔草、雑草、イワヒバ38 など)、NDL#20(葷辛菜、ダイコンなど)、NDL#21(柔滑菜 上、ホウレンソウ、野草など)、NDL#22(柔滑菜 下、ユリ73など)、NDL#23(瓜菜・水菜・芝、ウリ類、ナス、海藻、キノコ)、NDL#24(五果類)、NDL#25(香木類、スギ、ヒノキなど裸子植物の他キンモクセイなど)、NDL#26(喬木類、高木)また、水谷豊文は「救荒」「桜」「蘭」「雑木」「雑草」「穂」「海草」など類別の冊子も作成し、NDLには『豊文図纂』(W391-5:「山草」)、『本草図譜』(特7-220:「毒草」だけ)と題する転写本もあります。この他、NDLには、『重修本草綱目啓蒙増補抄録 』5巻(岩永藿斎)や『本草啓蒙名疏』7巻(小野蘭山 鑑定)もあります.
近年,『花木園芸』(1940年,養賢堂,宮澤文吾),「日本椿集」(1966年,津山尚,p.433),『椿花図譜』の解説(1969年,渡辺武),最新園芸大辞典(1980年、誠文堂新光社,石井勇義・萩屋薫)など色々な本、資料によると『武家深秘録』の慶長18年に「将軍秀忠花癖あり名花を諸国に徴し、これを後吹上花壇に栽(う)えて愛玩す。此頃より山茶(ツバキ)流行し数多の珍種をだす」とあったと書かれています.2代将軍秀忠が花好きであったことは『徳川実紀』などから間違いありません。しかし、将軍に対し「花癖」という上から目線の表現を当時書けるような人はいなかったのではないかというのが小笠原亮軒先生、市川先生と私の考えで、この内容は永青文庫にある『武家深秘録』には書かれていませんでした.さらに,浜崎大先生によると「江戸後期に出版された『草木奇品家雅見』や『草木錦葉集』の椿の項には、寛永期のツバキの流行が、将軍の「花癖」から始まったという記述はみられません」ということで,『武家深秘録』が引用されだしたのはそれほど古いものではないように思われました.ただ、宮澤文吾先生、津山尚先生、渡辺武先生、石井勇義先生,萩屋薫先生,青木宏一郎先生などは自分で見るか、信頼できる情報源で書かれる方達です.さらに現代語訳ではなく,古文で書かれていることなどから「永青文庫」本と異なる『武家深秘録』の存在も考えられます.原爆で消失したと言われる広島にあった『武家深秘録』だけでなく,澤田洋子先生は個人蔵の『武家深秘録』の存在を考えています.
第1編のp982に(秀忠は)「また花を好ませ給ひしかば ある大名より廣島絞と名付けし珍らしき山茶 を ねこじ奉りしに これを花園に植しめ 明暮その花咲を待わび給ひしが やうやう咲出ければそのよし聞え上げしに 折ふし御廟?服?にこもりおわしたるをもて 終に花園へはわたらせ給はざりしといへり」 p1011に「花卉を殊に愛玩し給ひしゆへ 各國より種々の珍品ども奉りける内に 廣島志ぼりといふ花辨に斑の入たる椿を接木にして獻りしものあり 殊に御けしきにかなひ 後園にうへしめられ いつしか咲出んと月日をかぞへて待しめ給ひ からうじて咲出ければかくと告奉りしに 見事なるかとの仰ばかりにて 後園に出まして見なはす事もましまさず 其頃いさ々か触穢の事おはしまして つ々しみ給ふ程なれば もし園庭に出まして天日の光に啞滴らせ當らせ給は々天を敬の道にあらずとおぼしとりて かくつ々志まり?給ひし之」
ツバキの図が172あります.草木部37つばき3(No.82,和27797)がツバキ圖3で岸川慎一郎編の椿古図譜復刻シリーズ 1836年(天保7年)の2『古今要覧稿』にあるツバキ圖1,2(和18605)に当たり,草木部38つばき5(No.83,和27797)がツバキ圖3,4(和18605)に当たります.文字も絵もコピーのようにそっくりですが,よく見ると異なります.同じ国立公文書館内閣文庫内に2セットあるようです.ツバキの品種には現存するものも多く見られます.古今要覧稿は,国立国会図書館にもありましたが,ツバキの図は見つかりませんでした.また,氏家幹人は『古今要覧稿』『庶物類纂図翼』の絵図細目(2007年)を纏めています.また,『古今要覧稿目録』もあります.
大英図書館のものは,浜崎先生が考察し,久保先生が確認した結果,印本に手彩色したものでした.ベルリンのStabi所蔵のものは二色刷り(山吹色で彩色されている部分がある)です。着色は黄斑のものがほとんどで、天で10品種、地で12品種、人で11品種(枝垂れ梅は花で赤色、橘の黄実)がありました。「PDF des ganzen Bandes 」で20コマ以上ではバグが起きますので10コマずつダウンロードしました。
1~4巻は植物以外で,5~8巻は木版印刷して出版されました.その他の巻は主に写本で田安家・水野越前守などに30-40部が予約で作られ配布されました.巻5~96がほぼ残っているのは国会図書館NDLの田安家本,本多豊後守助賢(→白井光太郎)本,神宮本,東京大学理学部附属小石川植物園およびKew 植物園と思われます.国会図書館には他に,卷1〜4,卷20,21,36,39,49,55-57,58,59,68,72,78,79,81,卷33〜34,卷41~70,卷48〜50,卷73,77、卷53,54,61,62,64,65,66,67,68,69,70,71,72,75,84,93,94,95があります。また,文字の翻刻として1(山草類1 48種)〜93(服帛類・器物類)と索引の「上」と「下」は白黒のコピーですが,整理されて見やすいです.
『本草図譜』は、いずれも彩色画ですが、文字や植物の図の形などが違うことから多色刷りでも木版印刷したものに手彩色したものでもありません。巻91のツバキなどで比較するとNDLにある田安家本は、図が正確で美しく、原本に近いものと思われます。一方、他の本には木版印刷されたと思われる枠などがありますが、本多家本と他の本では枠線も異なり、文字は手書きです。91巻には現存するツバキが15品種あります.
ただし、神田神保町の鳥海書房に彩色画の版刷りのものがありました(2022年11月)。これは、大正時代に6年をかけて弟子の一人が復刻したものだそうで、あまり多く刷られないまま戦争で消失したそうです。価格が高くなるので江戸時代に彩色画はあまり出版されなかったことを考えると貴重な資料です。
会員で、Kew 植物園のボタニカルアートをされている山中麻須美氏によると所蔵の『本草図譜』は孫の伊藤篤太郎がKewに研究者として滞在した際に伊藤圭介が手土産として持たせたものだそうです.
田安家本5〜6巻(山草部:ハマウツボ、コモチシダ)、巻7〜(山草部:ヒガンバナ、スイセン、ヤブコウジ、カンアオイ、ボタン)、巻10〜(芳草部:チューリップ、ラン)、巻13〜(濕草類:秋ギク、夏ギク、寒ギク)、巻16〜(濕草類:ナデシコ)、巻19〜(濕草類:ハボタン、キンシバイ)、巻22〜(毒草部:アジサイ、トリカブト、マムシグサ、ヒオウギ、イチハツ、ギボウシ、ツリフネソウ、ツツジ、ウラジロ、ザゼンソウ)、巻25〜(蔓草部:イチゴ、アサガオ、ノウゼンカズラ、バラ、カラスウリ、クズ)、巻28〜(蔓草部:キジカクシ、ヤマノイモ、カザグルマ)、巻31〜(蔓草部:フジ)、巻34〜(水草部:スイレン、セッコク、シノブ、ヒトツバ、ミセバヤ、サボテン、ユキノシタ)、巻37〜(石草部:マツザカシダ、イワレンゲ、シダ類、地衣類、オダマキ、ホトトギス、クマガイソウ)、巻40〜(穀部:ゴマ、大麻、大麦、トウモロコシ品種、ケシ)、巻43〜(穀部:大豆、ニラ、ネギ)、巻46〜(菜部:アブラナ科、人参)、巻49〜(菜部)、巻52〜(菜部)、巻55〜(菜部)、巻58〜(菜部)、巻61〜(果部)、巻64〜(果部)、巻67〜(果部)、巻70〜(果部)、巻73〜(果部)、巻76〜(果部)、巻79〜(香木)、巻82〜(喬木)、巻85〜(喬木類)、巻88〜(灌木類)、巻91〜(附録)、巻94〜(包木類)
稚胆八郎 (シーボルトの仮名)からもらったツンベルグ(春別爾孤 )の『Flora Japonica (日本植物誌)』(1784)の学名に名古屋の嘗百社(しょうひゃくしゃ)の伊藤圭介(伊藤舜民 編)が和名を付したもので,リンネの分類法を日本で最初に紹介しました(『泰西本草名疏』とシーボルト事件 ).久保先生によると○以下は、シーボルトの説で、ツンベルグの説と異なるものを挙げたということのようです。□でくくったものはラテン名(学名)が同じで、和名に別名があるものを挙げたもの、[ ]はラテン名で別の説があるものを挙げたもので、そのため漢名は省略されています(前列のものと同じ)。
『泰西本草名疏 』は彩色されています.会員(小笠原氏)の雑花園文庫にもあります.『徳川時代に於ける本草學概論』(渡邊幸三,1950年)も参照ください.
飯沼慾斎 により書かれたリンネ分類による日本最初の植物図鑑で、Species plantarum(リンネ,1753年)の2命名法を取り入れて24綱目に分類し,図解したものです.多くの種で花には正確に着色がなされています.30巻からなる植物図鑑で草部20巻が出版され,木部10巻は未刊でした.1875年(明治7年12月)に田中芳男 ・小野職 により学名が補された第2版『新訂草木圖説』(早稲田大学、Harvard University)および牧野富太郎により第3版『増訂草木図説』(草部1號,2號)(1907[大正2]年)が出版され、未刊の木部は北村四郎編注で1977(昭和52)年に刊行されました。本書には、ホッタインMartin Houttuyn(1720―1798)、ドドネウスRembert Dodoneus(1517―1585)、オスカンプDieterich Leonhard Oscamp、キニホフJohann Hieronymus Kniphoff(1704―1763)、ワインマンJohann Wilhelm Weinmann の資料が利用されました。
アサガオの図譜に多彩色のものが多いということが話題になり,探しましたのでまとめたものです.多くは多色刷りと思われますが、中には手彩色のものが含まれているかも知れません。不断花園牽牛花譜(?年,アサガオ21品種,多色刷り),花壇朝顔通(花壇朝顔通,University of Michigan 所蔵)(1815[文化12]年,壺天堂主人著、森春渓画、多色刷り 19図、単色濃淡20図、単色3図),牽牛品類圖考(1815[文化12]年,峰岸正吉 著,丹羽桃渓画,多色刷り40品種,朝鮮珍花蕣集),朝顔叢. 上巻( 1817[文化14]年、四時菴形影著,多色刷り50品種、あさかほ叢. 上巻),朝顔図考(四時庵形影 著,多色刷りが乾に50品種、坤に50品種),あさがほのさうし(写本、図無し),朝顔叢写本(1817[文化14]年,四時庵形影、彩色なし),朝顔譜(1817[文化14]年, 与住 順庵著、単色濃淡48品種),牽牛花水鏡. 前編( 1818[文政元]年,与住順庵著、単色の花イロハ47種類、葉46種類に分類),田楽朝顔譜(1818[文政元]年、尾張の変り咲き朝顔図譜) 、牽牛花水鏡(与住秋水著、1818[文政元]年刊、単色、花と葉の手鏡)、牽牛品( 1819[文政2]年,峰岸竜父 著、1編目に多色刷り1品種、単色濃淡20品種、2編目に多色刷り12品種、単色濃淡17品種、色が退色?),牽牛花百首 (1824[文政7]年,柳春門、1品種、多色刷り),朝顔百首狂歌集(1830[文政13]年、朝顔と百首の狂歌)、除蝗録後編(除蝗録後編)(大蔵永常、1846[弘化3]年,朝顔花併( 1853[嘉永6]年,穐叢園 著、4品種、多色刷り),朝顔三十六花撰(1854[嘉永7]年,万花園主人 著,36品種、多色刷り),三都一朝(1854[嘉永7]年,田崎草雲画,成田屋留次郎 著,多色刷り、上巻28品種,中巻多色刷り30品種、下巻28品種の計86品種ですが、江戸の花模様(小笠原亮軒氏)によると国立国会図書館、西尾市岩瀬文庫、九州大、千葉大など版によって異なるとされます。田中も版本を所蔵していますのでお見せできます。)、都鄙秋興(1857[安政4]年三冊)、両地秋(1855[安政2]年)、当盛十花撰 牽牛花(1854[安政1]年, 豊国広重優似顔東錦絵)、朝顔図説(1903[明治36]年)、変化朝顔図(明治~大正時代 高橋其堂画)、変化朝顔図(明治~大正時代)、あさがお手引草(1902[明治35]年)正岡子規や夏目漱石の趣味、現代に続く東京下町の朝顔市でも分かるように、丸山宏(明治期における朝顔雑誌の創刊とその展開、1994、造園雑誌57 (5): 31- 36)によると明治以降も朝顔ブームは続きました。楳嶺花鳥画譜(明治年間,楳嶺の描いた「 あづまにしきゑ」の中の花鳥画譜),牽牛花手引草上巻 ,下巻(1902[明治35]年, 岡 吉寿著、活字印刷のコピー、彩色なし) ,あさがほ錦之露(1902[明治35]年, 岡吉寿 著、活字印刷のコピー),朝顔図説前集,朝顔図説後集(1903[明治36]年,片岡潜夫 著、活字印刷のコピー),朝顔の栽培( 1906[明治39]年,高橋久四郎 著、活字印刷のコピー),朝顔図説と培養法(1909[明治42]年,岡不崩 述他 著、活字印刷のコピー),朝顔花図( 明治?年、武田信賢 著、多色刷り11品種)会員の仁田坂英二先生は江戸時代に発達した変化アサガオを中心に遺伝の研究、その突然変異体を誘発しているトランスポゾンの研究から品種分化の歴史まで研究をされています。著書に 『変化朝顔図鑑』: アサガオとは思えない珍花奇葉の世界(仁田坂 英二、2014)、『ぜんぶわかる!アサガオ』 (しぜんのひみつ写真館)(渡邉 弘晴著、 仁田坂 英二監修、2015、文響社)、続・近代の朝顔ブームなどがあります。東京朝顔研究会会報(1915[大正4]年度 、大正5年度、大正6年度、大正7年度、大正8年度、大正9年度、大正10年度、大正11年度、1923[大正12]年度 、1931[昭和6]年度、1934[昭和9]年度):多色刷りと思われますが、手彩色かも知れません。綺麗です。
朝顔に關する文献(1937[昭和12]年,岡不崩 著、活字印刷)
年代不詳:牽牛花真写(文章なし、写本?手彩色?22品種),牽牛子攷(森立之 写本、図無し),朝顔図譜(鑑)( 文章なし、写本?、彩色なし31品種),朝顔花競(図無し),牽牛花目録( 図無し)、牽牛花培養秘書(吉田秋草園 著、 図無し、写本),朝顔雑記( 水谷豊文著、乾坤、 図無し、写本),牽牛花集( 水谷豊文著、 図無し、写本)
田中は1979年に2ヶ月間パプアニューギニアでマレーシア・シャクナゲの調査を行い,そこではアフリカ原産で旧大陸各地で見られるヒョウタンやシカクマメ,南米原産のサツマイモが栽培され,南米原産と言われるアサガオが自生していました(種は正確に覚えていません。).アサガオは江戸時代に観賞用として発達しましたが、中国には5世紀以前(陶弘景『本草集注』500年頃)に,日本にも奈良時代(『古今和歌集』,914年頃)に,高価な薬「牽牛子(けんごし)」(アサガオの種子)として導入されていました.不思議なことにこれらはコロンブス以前です.逆に,ヒョウタンやシカクマメはコロンブス以前(1492年)から南米でも栽培されていたそうです.アサガオの起源と伝播やアサガオにあるように,アサガオ Ipomoea nil の原産が中南米であれば,アサガオもコロンブス以前に中国,日本に薬草として導入されていたことになります.また、サツマイモも1)バタタスルート:コロンブス後,アメリカ→ヨーロッパ→アフリカ大陸→インド ;2)カモテルート :コロンブス後,南アメリカ→メキシコ→フィリピン;3)クマラルート:コロンブス以前,南アメリカ→ボリネシア→パプアニューギニア,の三つがあったと言われています.そこで,田中は,これらの4種が南米とパプアニューギニアで栽培されていたことも合わせて考え,海洋民族のマレー人が古代にボリネシアの諸島を経由してパプアニューギニアと南アメリカ間を往来し,これらの有用種を運んだたものと考えています(『園芸と文化』,2012年,熊日出版).ただし,日本にサツマイモは,1605年に琉球に,1611年に鹿児島に伝えられ,1734 年に青木昆陽が江戸に伝えたとされます(さつまいもの伝搬と利用).さらに、原産地不明ですが東南アジアを中心にアフリカまで熱帯地方の池や畑で広く栽培されているエンツァイ(蓊菜)、別名アサガオナ、クウシンサイ(空心菜)英名 water spinach もアサガオやサツマイモと同属の野菜 Ipomoea aquatica で、パプア人と関係の深いオーストラリアの先住民族アボリジニもブッシュ・タッカーとして古くから栽培していたと言われています.これは、旧大陸における栽培されているヒョウタンやシカクマメの分布と重なります.『園芸と文化』の中で考察しているようにこの作物もヒョウタン、シカクマメ、メロンと同様にアフリカで栽培が始まり,ヒトの出アフリカの時に広がったものと考えるようになりました。
浴恩春秋両園櫻花譜(1822[文政5]年):美しい絵巻物(123品種+5系統)で,松平定信が狩野良信に描かせた1884年の写本ということです. 『浴恩園櫻譜』の説明によると寛政の改革を行った松平定信が老中職を退いた後,『花の鑑』を編したもので,三好学氏によって『浴恩園櫻譜』と名付けられました.同名の『櫻花譜』(12品種)は折り帳です.この他,奈波道円著の『桜譜』(元文3年,写),山崎闇斎著の『桜之弁』 (刊),坂本浩然(1800-1853年) 著の『櫻花譜』や文字の書体から判断して同じく坂本浩然の作と思われる雑花園文庫の『櫻花写生書稿』(約36品種+品種名不明8系統)もあります.『桜花図譜』(1921[大正10]年)は三好学の著です.『櫻花写生書稿』は小笠原左衛門尉亮軒氏のご厚意で写真を撮らせていただきました.『莟花十六梅品』(出版年不明)は江戸の水双六です.
行方水けいの『百合譜』(1896国会図書館デジタルコレクション)と同じ名前の資料が、岩瀬文庫(西尾市立図書館)にあり、内容は違います。前者にはテッポウユリの画はないが、琉球ユリの画があり、後者には鉄砲百合の画があるそうです。 岩瀬文庫には『百合花譜』という資料もあり、この中に「鉄砲」という画があるそうです。『茶席挿花集』(柿園 著):10コマ目に「百合▲てっぽうゆり、花白く大」、「料理ゆり、天香百合、花白く大」(天香百合はいろんな百合の名前になっていますが、ヤマユリである可能性は高い?)、「鬼ゆり」、「たもとゆり」、「琉球ゆり=かのこゆり」、「はかたゆり」、「▲竹嶋ゆり 花黄」、「ひめゆり」、「なるこゆり」(注▲マークは茶家がことさら賞するもの)
『本草綱目紀聞』(水谷豊文、1805〜1833年)の22巻73コマ目にあるユリの画はテッポウユリと思われます。
その他、『本草和名』(深根輔仁、901 - 923年[延喜年間]、百合は37コマ目)、『倭名類聚抄』(934[承平4]年頃、源順著、百合は45コマ目)、『蕣(あさがお)百合 雑』(永青文庫、1764[明和2]年、『肥後の名花譜』にもあります。写真を田中所有)、『透百合培養法』(写本1847[弘化4]年、花菱逸人、彩色圖)、『百合花四拾種』(1845[弘化2]年)、『百合花集』、『草花写生図』の3冊は、筆跡から飯室庄左衛門 (1789-1859、赭鞭会)による。 植物図説雑纂(1826[文政9]年、伊藤圭介)、『百合百華図』、『百合圖譜』(行方水谿 著、1896年)、『百合譜』(坂本浩雪/図、テッポウユリはない)、『植物集説』(第45冊 百合科、1877頃?博物局?)、『資生園百合譜』(1800頃? 馬場大介・加藤竹斎、『植物図説雑纂』(伊藤圭介編214p80図に写させた))、『百合百花譜』(雑花園文庫、彩色)、『百合百華図』(広益地錦抄の写しあり、磯野)、『百合雑記』(1879に卯之吉本の注記だけを転写、1870細野2004)、『彩色写生輸出百合花集(東京大学、国会図書館) 』( 池田次郎吉、1895[明治28]年)、『百合花集』(1896、田原陶掎、彩色)
1687 に Andreas Cleyer によって書かれた “De Plantis Japanensibus part of Miscellanea Curiosa (wikimedia)” ( Decuria II, Annus VII Fig.24) が最も古い資料です。その絵には、カタカナで “ツバキ” と読め、アルファベットで “Tzumacky”とあります。図からもこれはヤブツバキでした。東インド会社の外科医・医師の James Cunningham が中国の福建省にある厦門 Amoy からロンドンに送られたツバキの図を James Petiver (1658-1718)が1702年に 王立協会の学術雑誌、Philosophical Transactions Vol. 23 (1702 - 1703年) の pp. 1055-1068?、p.1251-1266 ? に載せたのが学術雑誌としてヨーロッパでの最初の紹介で、「Thea Chinensis Pimentae Jamaicaensis folio, flora Rosaceo simplici」という名前を付けました。
一方、レオナルド・ブルケネ Leonard Plukenet が1705年?にツバキの図を発表していますが、その形態からヤブツバキではなく、サザンカと思われると浅井敬太郎は、『椿 花と文化』(昭和44年)に書いています。ただし、この資料は見つからず、The Gardens Trustに書かれている Petiver’s Gazophylacium naturae et artis (1702–6) の絵も形態から判断してサザンカであったことから両者は同じものかも知れません。いずれにしても、これがヨーロッパにおけるサザンカの最初の記載と考えられました。
そこで、イギリスの大槻先生からの情報で、レオナルド・ブルケネ Leonard Plukenet の書いたAMALTHEUM BOTANICUM(1705年)を調べたところツバキの図(CDIX ページ=CCCCIX ページ Fig. 2)および記載(Fol. 98 of text) がありました。記載は、当時の西欧における共通語のラテン語でしたので、Mark Griffiths 氏に英語に訳して頂きました。
1. Leonard Plukenet's original LatinFrutex Cheusanicus , floribus Theae ex albo carneis, fructu unicapsulari, capsula trifidi. Foliis Theae sed laevioribus, & magis viridibus, nec in usum adhibendis. D Cunningham . Insulae Cheusan Indigena est.2. English translation Plukenet's text in bold, our explanations in square brackets [] and not bold -
A shrub from Cheusan [i.e. Chusan also spelt Zhoushan Island, in sea off Zhejiang Province] with flowers like those of Thea [Camellia sinensis ] but white to flesh pink, fruit with one capsule, capsule three-parted. Leaves like those of Thea but smoother and greener, nor are they to be put to use [i.e. for drinking] . [communicated/collected by] Master Cunningham [D here is an old convention, it stands for Dominus , master, i.e. mister ] It is native to the island of Cheusan.プルケネットもカニンハムも日本固有の植物をたくさん収集し、浙江省寧波市舟山島 Cheusan で交易をし、またそこで育てていました。しかし、その図や記載から判断してヤブツバキでもサザンカでもありませんでした。
オランダ商館付の医師として1690年(元禄3年)から2年間出島に滞在したケンペル Engelbert Kaempfer(1651-1716)が『廻国奇観』 Amoenitatum exoticarum の中でヤブツバキ(ツバキも)やサザンカを紹介したのはその後の1712年で、リンネの『植物の種』(”Species Plantarum”, 1753)にあるヤブツバキは『廻国奇観』を基にして書かれました。
1905年の国際植物学会議(国際藻類・菌類・植物命名規約)で、1753年のリンネの『植物の種』”Species Plantarum” を学名の出発点とすることが決まったため、ヤブツバキの学名は、Camellia japonica L. (The Botanical Magazine Volume 2, 1788, djvu/13 )が有効名となり、サザンカの学名は、Carl Peter Thunberg が1784年に著した “Flora Japonica” のC. sasanqua Thunb.( Syst. Veg., ed. 14. 632 (J. A. Murray、1784)が有効名となっています。
まとめると、「福州たちばな」は、包橘(ほうきつ)、別名コウジの一種と思われます。 画からは「たちばな」かどうかは分かりませんが、包橘(コウジ)が、「ミカンより小さく、皮が薄く、皮の肌が平で、黄色に光り、下物で、味が苦い」ということであれば「たちばな」かも知れません。包橘 集解
(注;分別集解という表現もあったので、分別は区別できるたもの、集解は同じ仲間と判断したもの、の意か?)
かうし
(注;「こうじ、柑子」は久保先生の言う「柑」か?自身はありません)尋常 のかうし之柑 より小にて皮薄 )く皮の肌 平(注;たいら)に
して黄色光 りあ りて下品なり味(注;あじわ)
ひ苦 し
一種(注;その1品種の意か?)
福州 たちはな
實ハかうしに似 て皮 薄 く肌 細 く味 い酸 し
Rokugatsu-mikan (C. rokugtsu hort. ex Y. Tanaka) (95)、Kikudaidai (C. canaliculata hort. ex Y. Tanaka) (99)、Hyuganatsu (C. tamurana hort. ex Tanaka) (107)、Orange Hyuga (C. tamurana hort. ex Tanaka) (107)、Hanayu (C. hanaju hort. ex Shirai) (114)、tachibana Okitsu-kei (C. tachibana Tanaka) (143)、Kabuchi (C. keraji hort. ex Tanaka) (126)、Keraji (C. keraji hort. ex Tanaka) (126)、Korai-tachibana (C. nippokoreana Tanaka) (122)、Ogimikuganii (C. depressa Hayata) (153)、Oto (C. oto hort. ex Y. Tanaka) (127)、Shiikwasha No.1 (C. depressa Hayata) (153)、Tarogayo (C. tarogayo hort. ex Y. Tanaka) (128)、Yatsushiro (C. yatsushiro hort. ex Tanaka) (125)、Giri-mikan (C. tardiva hort. ex Shirai) (150)、Koji (C. leiocarpa hort. ex Tanaka) (154)、Koyuzu (C. leiocarpa complex)、Kokitsu (C. flaviculpus hort. ex Tanaka)、Ogonkan (C. flaviculpus hort. ex Tanaka)があります。
また、タチバナ関連の人工交配経済品種の一部として
Haruka (Hyuganatsu x Kawanonatsudaidai)、Shonan Gold (Ogonkan x Imamura Unshu)、Rurika lemon (Lisbon lemon x Hyuganatsu)があります。
これらの雑種起源の種について大槻先生から「C x tachibanaから直接かつ独占的に派生したものなのか、または自家受粉したC. x tachibana の苗なのか、それともC x tachibana と他の種類の柑橘類との間の交配なのでしょうか?」との質問があり、若菜先生から回答がありました。
タチバナの遺伝子を持つ雑種であるかどうかはタチバナに特異的なアイソザイム遺伝子GOT-2を調べれば分かります(平井らの文献参照)。それらの親子鑑定や家系を探るには母系(ミトコンドリアや葉緑体のDNA)や両親(核DNA)を大量DNA分析します(清水らの論文参照)。清水らの論文では雑種の元となったタチバナには数系統があることが示されています。
タチバナ特有のGOTアイソザイム遺伝子Got-2対立遺伝子aについては、 A Survey and Isozyme Analysis of Wild Mandarin, Tachibana (Citrus tachibana(Mak.) Tanaka) Growing in Japan (Masashi HIRAI, Shuichi MITSUE, Keiji KITA, Ichiro KAJIURA)を、 ミカンとリュウキュウタチバナとタチバナの系統発生に関しては(Wikipediaにも引用あり)、 "Diversification of mandarin citrus by hybrid speciation and apomixis" (Wu, Guohong Albert; Sugimoto, Chikatoshi; Kinjo, Hideyasu; Asama, Chika; Mitsube, Fumimasa; Talon, Manuel; Gmitter, Frederick G, Jr; Rokhsar, Daniel S , 2021)を、 大量のDNA遺伝子解析を基にしたタチバナ関連園芸種や雑種の母系父系、系統図については Hybrid Origins of Citrus Varieties Inferred from DNA Marker Analysis of Nuclear and Organelle Genomes (Tokurou Shimizu et al. Published: November 30, 2016) を参照ください。
一般に、日本のタチバナは、古事記の中巻や日本書記の6巻の記載に始まり、以降大和本草や草木実譜、本草図譜にも紹介されていると書かれています。しかし、若菜先生によると、日本のタチバナの古文献として一番古くかつ重要な古文献は魏志倭人伝(280-297)で、以下の通り邪馬台国(卑弥呼在位242-248)および連合国での農業(園芸)状況や照葉樹林帯のことが記載されている中にあります。
・倭地温暖 冬夏食生菜 (倭地は温暖にして、冬夏、生菜を食らう。)ここに出る橘とは皮が薄く剥きやすいミカン類のことで、食用に供されていないことから、このミカンは甘味がなく、苦味があり、酸味が強いミカンと推定されます。日本に最も古く導入されたと伝えられている甘くて良食味のミカン類(紀州みかん)は250年までには導入されていないことが分かります。この邪馬台国や連合国に自生している橘はタチバナ以外には考えられません。タチバナは香りが良いのでおそらく鑑賞園芸植物として利用されていたと推定します。
・食飲用籩豆 手食 (食、飲には高坏を用い、手で食らう。)
・出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉 (真珠やサファイヤを産出する。その山には丹がある。その木はタブノキ(枏=楠)、コナラ(杼)、クロモジ(橡)、クスノキ(樟)、クヌギ(楺櫪)、カシ(投橿)、ヤマグワ(烏號)、フウ(楓香)がある。その竹はササ(篠)、ヤダケ(簳)、トウチク(桃支)である。ショウガや橘、山椒、ミョウガがあるが、それを使って、旨味を出すことを知らない。アカゲザルや黒キジがいる。)
・景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻(景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。)考古学者歴史学者の一部には(私も)この難升米(なしめ)が田道間守のモデルと考えています。代々等の生薬植物を正式に導入できたはずです。
・汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今 以難升米為率善中郎将 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還(汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為す。銀印青綬を与え、引見してねぎらい、下賜品を賜って帰途につかせる。)
「沖縄科学技術大学院大学 OISTの研究グループにより公表されたタチバナの起源に関する論文で重要な結果が報告されています。田中長三郎(上述)がタチバナ亜種として分類したリュウキュウタチバナ(単胚性)がタチバナの起源種(純粋種)で日本本土にあるタチバナ(多胚性)はリュウキュウタチバナの雑種と確認したとの報告です。300万年前に始まるタチバナ系統発生の詳細については関連論文を紹介いたします。」とのことです。
以上若菜先生からの情報
次に、久保先生は、柑橘類の「柚」が何であるかを長年調べ、服部雪齋『柑橘譜』(未発表のため現在リンクしていません)や宋代の『橘譜』について論じています。そのため、柑橘類の分類を調べています。
最近の論文をみても、遺伝子解析を行っても綺麗に分かれてくれないらしく、品種の系統関係もまだ不明な点が多いようです。一方、野生の在来種とみられるタチバナは、たぶん分類的には難しくないのでしょうが、図や文字記載だけ、それがタチバナかどうか俄に判断できないと思います(ある名の柑橘類の図が見た目はタチバナであっても、雑種なのかもしれません)。農研機構の山本伸一先生からは、つくば市唯一の在来作物である小型の柑橘、タチバナの一種といわれている「福来(ふくれ)みかん」(元文献は未見)や、橘の由来だけでなく、沖縄の「シークヮーサー」、橘の起源は沖縄 シークヮーサーと共通の親(沖縄科学技術大学院大など調査)の紹介がありました。
「橘」をタチバナと読むのは古いですが、本当に「橘」が在来種のタチバナに限定されているのかは些か疑いを持っています。まず陳皮という薬には、タチバナの皮が日本では代用されていて、輸入品が良いとされていましたから、ミカンとは区別されていたような記載はあります。しかし、果たして明確に区別されていたのか、実は食用になるミカンも「タチバナ」の一種とされていたのではないかなど、そういう可能性も考慮して調査をしています。小さいミカンとして、中国には「沙糖橘(桔)」というのがあり、タチバナの実と同じくらいの大きさになりますが、味はミカンそのものです。 なお、中国における「橘(桔)」と「柑」の区別ですが、柑橘類の分類が難しいという影響が中国にもあり、はっきりと線引きできません。が、基本的には異なるものです。「橘」が所謂ミカンの類です(日本では「蜜柑」と書きますが)。一方、「柑」はデコポンやオレンジに近く、ミカンとは外見が異なります。実は皮が厚く、球形に近く、品種によってはさらにやや紡錘型になります。ミカンのように扁平にはならないものが多いです。金柑は例外的に小さいですが、実が扁平ではない点は「柑」の特徴を反映しています。
皮が堅く薄いもので、剥離しにくいもの、つまりオレンジに近いものは「橙」といい、文旦や晩白柚などの大形の柑橘類は「柚」といいます。このほか、カラタチの類を「枳」といい、他にも「枸」「櫞」などもあり(citric acidの訳クエン酸の由来)、中国では比較的細かく分類されているのですが、その基準が曖昧です。また、以上は現代中国語での話で、歴史的に一貫しているのかについても注意が必要です。その典型的な例が「柚」になります。少なくても、日本、中国で「柚」と呼ばれているものは異なる柑橘類です。(田中) 2019年に広東省に行った時に、日本語のできる地元の方がゆず(柚子?)と説明していたものはブンタンでした。キンカンやカラタチ,ユズなど果実だけでなく葉もよく見ると大きな分類群が見える時もあります。いくつかの漢字で大きく分類をする中国人の方がよく見えているのかも知れません。
植物に雌雄があるという説が江戸時代にありました. 児島如水の『農稼業事』(文政元年)で稲の雌雄を説いたものが最初とされています.草木撰種録 : 男女之圖(嘉永2 [1849]年『草木そだて心得草』)宮負定雄 著の福岡大学図書館にも農家撰種録(さくにんたねかがみ)(大蔵永常 弁)や草木撰種録の解説(萬延元[1860]年)が載っています.しかし,大蔵永常は,再種方附録(1832 [天保3]年)の中で雌雄異株や雌雄同株の植物もあるが,顕微鏡でイネの花粉の観察して,一つの花の中に雄しべ,雌しべがあることを紹介しました.ただし,優れた雌株を選抜することは育種に貢献するとも述べています.
ツバキの『百椿図』とは漢字も異なりますが,図書館展示計画委員会報告(2009年)にあるように,食べ物を中心に江戸時代にはたくさんの『百珍』が書かれました.日本人の好奇心の強さからよく売れたようです.江戸時代の食文化を紹介します. 有名なのは,『豆腐百珍』と『卵百珍』です.『豆腐百珍』の『正編』(天明2 [1782]年)は人気がよく,すぐに続編(天明3 [1783]年),余録(天明4 [1784]年)が出版されます. 『卵百珍』(寛政7 (1795)年)は主に卵の調理法を記した書で,1785(天明5)年に『萬宝(まんぽう)料理献立集』,『萬宝料理秘密箱』前編が出版された.著者は器土堂(きとどう)で,前書の目録題に「卵百珍」とあり,後書の再版の見返しに「一名玉子百珍」とあるように『卵百珍』といわれました.『江戸時代の料理本にみるたまご料理(1992年)』に解説があります.「黄身返し」の秘技は驚きです.国文研データセット』の他,早稲田大学図書館には,『2冊』と8冊があります. その他,珍古楼主人 輯 著の『甘藷百珍』(寛政1 [1789]年版,(文化13[1816]年)版)は,別名『いも百珍』とも言われました.器土堂主人著の『鯛百珍』(?年),嗜蒻陳人著の『蒟蒻百珍』(1846[弘化3]年)などもあります.また,明治になって有文館出版部 編で世界百珍. 人間の巻 上巻(明45.6年)も出されました.
宮崎安貞,佐藤信淵と並ぶ江戸の三大農学者で,人々の豊かな暮らしを願い,多くの農書を執筆しました.図も多く,漢字にはルビを多く用い,分かりやすい文章です.『大蔵永常』 (1969年、筑波常治/伝記物語全集)や広益国産考(1995年、岩波文庫) で紹介された他,大分県の先哲の一人に選ばれ、『大蔵永常《評伝》』 (1984年):豊かなる農村の実現に生涯をかけた農業ジャーナリスト (大分県先哲叢書),『大蔵永常』(2002年、大分県先哲叢書),『大蔵永常《普及版》』 (2004年、大分県先哲叢書):人々の豊かな生活を願った農学者、が出版されました。また、東海大学農学部の蔬菜花卉園芸学研究室では2017年の大学祭で大蔵永常(大分出身の江戸農学者大蔵永常に関する研究(田中孝幸,園学研.2010年、 (別) 2: 328)を取り上げました.農家益(1802[享和2]年),(ハゼノキの栽培法と製蝋技術を解説,なお,櫨(ハゼ)については夜光珠に詳しい.また,熊本など九州で櫨の栽培はさらに古く,肥後熊本藩の中興の祖と言われる六代藩主細川重賢が奨励した侍の櫨,菊池川のハゼ並木,侍街道はぜのき館-水俣市-,さらに赤穂浪士との関係で赤穂義士縁,山鹿・日輪寺,忠臣蔵と櫨などの記録がある.農家益は3冊,後編2冊,続編2冊の7冊),老農茶話(1804[文化元]年),豊稼録(1810[文化7]年,1826[文政9]年再版,日本農書全集15巻,害虫の防除),農家益後篇(1811[文化8]年),田家茶話(1820[文政3]年),農具便利論(1822[文政5]年,日本農書全集15巻),再種方(1824[文政7]年)(草木撰種録(そうもくたねえらみ)草木撰種録の副題は「男女之圖」で雌雄論について書いてあり,これを理論的に否定しています.),除蝗録(1826[文政9]年)(鯨油を用いた害虫の防除,鯨の絵が印象的です.),繪入民家育草(1827 [文政10]年),文章早引(1828 [文政11]年),油菜録(1829[文政12]年)(菜種の栽培法),製葛録(1830[天保元,文政13]年,日本農書全集50巻),農稼肥培論(内閣文庫,1832[天保3]年に書かれましたが,刊行は1888[明治21]年,日本農書全集69巻),農家肥培論講話(鈴木千代吉は明治),再種方附録(1832 [天保3]年,顕微鏡でイネの花粉の観察をして,雌雄論の否定をしています.),竈の賑ひ(1833[天保4]?年,翻刻),文章かなつかひ(1830[天保元]年 or 1833[天保4]年,九大コレクション),綿圃要務(1833 [天保4]年,日本農書全集15巻,綿圃要務解題は,現東海大学農学部の阿部先生が書いたものです.顕微鏡を用いた観察や連作障害およびその対策なども書かれています.),徳用食鑑(1833[天保4]年,『竈の賑ひ』にもれたものです.),農家心得草(1834[天保5]年),門田能栄(1835[天保6]年,(渡辺)崋山全集. 第2巻)(三河田原藩の 御産物殖産方として),救荒必覧,製油録(1836[天保7]年,菜種油の絞り方,日本農書全集50巻,翻刻,『搾油濫觴』,『清油明鑑』),農稼業事. 後編,農稼業事. 後編(天保8 [1837]年),勧善著聞百談(1840[天保11]年),国産考(1842[天保13]年)(『広益国産考』の第1,2巻に当たる),文章早引(1842[天保13]年,九大コレクション),山家薬方集(1844[弘化元]年),除蝗録後編(除蝗録後編)(1846[弘化3]年、日本農書全集15巻),救民日用食物能毒集,農家益・続篇(1854[安政元]年、東京国立博物館など),広益国産考( 1844[天保15]年)(1859[安政6]年,日本農書全集14巻)),勧善夜話(1847年,奇談集,45,000円),食物能毒編( 1848[弘化5]年),甘蔗大成(日本農書全集50巻),農暇必読(1859[安政6 ]年),黄葉園随筆
特に1709[宝永6]年に『大和本草』を書いたことで知られています。ただし、その前に1672[寛文12]年に『校正本草綱目』の5巻に「品目」「名物付録」を書き、1698[元禄11]年に『花譜上、中、下巻を、1704[宝永元]年に『菜譜』上、中、下巻を書いています。『花譜』に「牡丹の芽を芍薬台に接ぐ」と書かれていますが、これは明代の「遵生八牋」からの引用で日本では普及せず,明治35年頃まで実生のボタンに接いでいました.一方、益軒は81歳の1710年に、儒教に基づく教育書である『和俗童子訓』や83歳の1712[正徳2]年に健康法を解説した『養生訓』を著したことでも知られています.その他、『筑前国続風土記』(1703[元禄16]年)を編纂し、平易な文体で書かれた著書は約270巻と言われています。
益軒は福岡出身で、同藩出身の宮崎安貞(1623年〜1697年)と交流があり、日本最初の農業書と言われる『農業全書』(1697)にも関わっています。九州大学付属図書館の総合研究博物館の電子図書館に貝原益軒や中村学園大学の図書館に貝原益軒アーカイブがあります。墓所は福岡市の金龍寺(曹洞宗)です.
明治時代になってもジャポニズムなどの影響で日本のものが欧米諸国で求められます。これらの中に絵画など他の芸術品と共に江戸時代に発達した庭や園芸植物などの園芸文化が欧米諸国に知られ、高い評価を得て輸出され、高価な文明の利器を輸入することができたのだろうと思います(海外に於ける本邦輸出植物の商況)。ツバキ、ユリ類やボタン、ハナショウブ、ツツジ、モクレンなどなど江戸時代に育成された品種が、横浜植木(株)(初期の Yokohama Gardeners' Association から Yokohama Nursery Co., Ltd に会社名を変更)など関東だけでなく関西、福岡などから、植木会社だけでなく元将軍の慶喜まで輸出用の生産をしました。アメリカでは堂本兄弟、澤田氏、など日系アメリカ人が携わりました。1892-93:Wholesale catalogue for the fall and spring、Yokohama Gardeners' Association, importers and growers of Japanese plants, shrubs, trees, seeds, bulbs, etc.
1894:Wholesale catalogue
1898:Descriptive catalogue of the Yokohama Nursery Co., Ltd.
1899:Lilies of Japan
1909-1910 1910-1911 1911-12 1912-13 1913-14:Descriptive catalogue of flowering, ornamental trees, shrubs, bulbs, herbs, climbers, fruit trees,.
1911-12:Descriptive catalogue of the Yokohama Nursery Co., Limited
1911:Japanese lily bulbs nursery stock & seeds
1912-13:Japanese lily bulbs nursery stock & seeds for wholesale trade only
1914-1915:横浜植木(株)定価表
1915:Japanese lily bulbs nursery stock & seeds
1916:Price-list of Japanese lily bulbs
1918:Descriptive catalogue of the Yokohama Nursery Co., Limited
1923:Price list of flowers, trees, shrubs and fruit seeds
1925 - 1926: Price list of flowers, trees, shrubs and fruit seeds
1932:Price list of flower, tree, shrub and fruit seeds
1934: Price list of flower, tree, shrub and fruit seeds
年代不詳:Bulbs, Plants and Seeds
年代不詳:List of seeds and plants
黒曜石は、ガラスナイフのように切れ味が鋭いので肉を切ったり、鏃 に加工して日本でも後期旧石器時代から鉄器が普及するまで広く用いられました。中国や韓国にはそれぞれ一箇所ずつしか産地がないのに対し日本には55箇所の産地があり、日本国内の流通だけでなく朝鮮半島へも大量に輸出されました。熊本北区にある自宅の庭からも石斧と共に出土しました。
拙著『園芸と文化』(熊日出版、2012年)で1979年にマレーシアシャクナゲの研究で2ヶ月間滞在したパプアニューギニアや1986年に客員教授として1年間奉職した the University of North Carolina at Chapel Hill に奉職した折、アメリカインディアンの旧世界から隔離された文化などから容器としてのヒョウタンはアメリカまでマクワウリは旧世界全体、芋としてのシカクマメは旧世界からニューギニア経由で南アメリカまで(サトイモも?)広がっていました。これらの栽培は弓矢、楽器、ブタなどと同様世界共通の文化で、出アフリカ以前の共通の祖先が持っていた文化と推定しました。一方、コメ、ソバ(アジア)、コムギ(メソポタミア)サツマイモ(南アメリカからニューギニアへ)、トウモロコシ(南アメリカ)などの農耕文化だけでなくチャ(8世紀に中国から日本などへ)、アサガオ(5世紀以前に南アメリカからニューギニアを通じて中国、日本などへ)などは共通の祖先が持っていた農耕文化ではなく、出アフリカ後どこかで生まれた文化が伝わったものと推定しました。黒曜石は、エネルギー分散型蛍光X線分析装置などにより原産地分析ができ、生活必需品で地元で手に入らないものであれば海を渡って交易が行われていた縄文時代など有史以前の流通の証拠になるものと思われました。1979年にマレーシアシャクナゲの研究で2ヶ月間滞在したパプアニューギニアでは海から離れた山奥で装飾品としてタカラガイ(宝貝)が使われていました。ここは近年まで鉄器だけでなく土器文化もない石器時代の生活が続いていたところでした。
エネルギー分散型蛍光X線分析装置などにより原産地分析ができ、石器時代から流通があったことが分かっています。伊豆諸島の神津島産、九州の黒曜石(写真)、大分県姫島産、飛騨市塩谷産、佐賀県伊万里市腰岳、熊本博物館収蔵などの黒曜石が流通していました。
特集黒曜石研究:流通、流通、研究の動向、狩猟道具、阿蘇郡の遺跡調査、研究業績一覧、科研費
園芸や植物学,薬学などだけでなく,博物学関連のものとして江戸博物誌の歩み(年)にあるように,毛利梅園(1798-1851年)が書いた魚介類(梅園魚品図正2巻,梅園魚譜,梅園介譜),梅園禽譜(1839年),梅園菌譜や幕府の命で屋代弘賢らが編纂した百科全書『古今要覧稿目録』(1821~42年)など江戸時代日本では鳥など動物などもたくさん書かれました.また,江戸時代の貿易品目をみると輸出は銀や銅で,布などの少し贅沢な必需品だけでなく書籍や国外の珍しい動植物も日本人の好奇心の強さから輸入されていたようです.戦後間もない昭和30年頃の宮崎県延岡市でもペットは盛んで,メジロなどの和鳥,ジュウシマツなどの洋鳥を取り扱う店が数軒あり,賑わっていました.推定1630年代に松平忠國が狩野山楽に描かせた『百椿図』(根津美術館蔵)にツバキと白や普通のネズミ色のネズミの絵があります。私が子供の頃でも白のハツカネズミを飼っていた人がいたように江戸時代の初期にもネズミはぺットとして飼っていたようです。
ラン科植物の多くの交配種は戸籍がはっきりしていて、また、International Code of Nomenclature(ICN)では考えていない属間雑種のできるものも多く種間雑種のための雑種式では表すことができません.たとえば、レリア Lelia 属、ブラサボラ Brassavolla 属、カトレア Cattleya 属の3属間の交配で作られた新属 Brassoleliocattleya ( Blc . ブラソレリオカトレア) などは雑種式で表せないものでした。そこで、ICNともICNCPとも異なった表記方法がラン科植物では通用しています.交雑ができるのであれば属の定義に従って1属にすべきと思われます.
クリックするとお手元のコンピュータで見ることができます.重いので少し時間がかかります.直接ダウンロードできるものもありますが、iCloud の分をダウンロードしたい方は工具のスパナ・マークの「Download a Copy」からしてください.
ただし,お使いになる時には,作成者までご連絡ください。細木高志先生の連絡先は hosoki_takashi(アットマーク)kha.biglobe.ne.jp です.
ボタン、シャクヤクの歴史については久保輝幸先生が詳しく研究(ボタンに秘められたミステリー)されています.久保先生の『牡丹・芍薬の名物学的研究(1)牡丹とヤブコウジ属植物の比較、(2)芍薬の訓詁史』によると中国で「牡丹」や「芍薬」(薬を勺する)は薬や料理の素材として用いられていました。「芍薬」が花のシャクヤクと言える記載は六朝時代(222 - 589年)にあり、晋(265 - 420年)では文人の間で芍薬の「花」が鑑賞され始めました。一方、初唐(618 - 712年)以前の「牡丹」あるいは「百両金」は、今のPeony属の花としてのボタンではなく「ヤブコウジ」の古名で、このように「芍薬」の名前の方が古く、唐代になって現れた「木芍薬」がボタンを表していたと思われます。江戸時代にカラタチバナが「百両金」とも呼ばれたのは、ブームを起こして2,300両もの高値で売れたからではなく、同じヤブコウジ科のマンリョウがすでに中国で「百両金」という名前で薬として高値で売買されていたことに影響されたものと久保先生は考えています。千両、万両という名はその「百両金」から日本で派生し、ヤブコウジも十両と呼ばれるようになったようです。ボタンの名前は中国でも混乱し、日本ではヤブコウジのことを『出雲国風土記』などで「ふかみぐさ」と読んでいてそれを「牡丹」やヤブコウジに直したのでさらに混乱してしまいました。
また,ボタンの歴史に関しては会員の青木宏一郎先生が紹介された植島暁子著の西ヶ原の牡丹屋敷をめぐっての他,久保先生の『宋代牡丹譜考釈』もあります.これは漢文で,英文の要旨が付いています.
【入会案内・会員登録書付】 :2021、和文抄訳 付きです。
【品種検索】:シノニムを含めると5万以上の品種が登録されています。
【国際優秀つばき園】:申請方法と基準,和文抄訳 付きです。
【アポリウ宣言】:ツバキの古木および銘木の基準と申請方法、和文抄訳 付きです。
2025年東京大会
2023年イタリア大会(Instructions for authors)Pre-congress : March 21 - 25, Lucca, Tuscany
Congress :March 26 - 28, Lake Maggiore, Verbania, Piedmont
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2020年2月29~3月6日に予定されていた五島大会(Instructions for authors,投稿規定,Registration form)は新型コロナウィルスのため中止になりました.
2018年ナント大会(プログラム,申込書,投稿規定)
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(6)「PDF写真」を開き,レイアウトオプションで「横」「縁なし」「1枚」を選択する,(7)次のシートで,前のものを捨てて「+」で「写真」から写真を選ぶ,(8)次の次のシートで,ファイル名を直し,「アプリで開く」をクリックする,(8)「i文庫HD」に読み込む,で設定します.
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(裏技7)Macの「.mov」ファイルを「.mp4」に変換する方法
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(裏技9)OCRアプリを用いて本や写真から文字をデジタルで認識する方法
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(裏技11)QRコードを作成する方法
QRコードを無料で作成できます.
(裏技12)緯度・経度・標高を知る方法
現在地の緯度・経度・標高を知ることができます。緯度・経度の変換ソフトを用いれば10進数と60進数(度分秒)の変換ができます.
(裏技13)iPhone、iPad のカメラの隠れた活用方法
ポートレートモードでは花を強調するために周りをぼかして一眼レフのような写真が撮ることが、タイムラプスモードでは花の開花などを早送り再生したような動画を簡単に撮ることができます。
(裏技14)iPad で簡単にスクリーンショットする方法
1)設定で、アクセシビリティ → タッチ → AssistiveTouch → オン → シングルタップ(メニューを開く) → ダブルタップ(スクリーンショット) → 長押し(画面の向きをロック)を設定しておくとスクリーンショット(iPad 画面の撮影)などが簡単にできます。
2)ダブルタップで『スクリーンショット』 → PDF スクリーンが画面に現れるのでそれをクリック → 画面が長い時にはフルスクリーンを選択 → 保存や送信(PDFなどで)
(裏技15)グーグルレンズを使って商品のメーカー、型式や価格を調べる方法
Google アプリを開き、検索の中の🎤(マイク)の隣にある📷 マ ーク (Google レンズ)をクリック → 撮影する → 商品情報などが表示されます。
現代人には古文書を読むのは困難です.しかし,日本人ですので少し勉強すると読めるものも出てきます.古文書の解読は,クイズ感覚で楽しめます! 読めないときにはメーリングリストに投稿ください.スラスラ読める会員もいますので教えてくれると思います.